訂正後の「倭」

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「倭」を再び考察します

「倭」を構成している国々
名 称構成国備考
倭国・狗邪韓国・対馬国・壱岐国・末盧国・伊都国・不彌國
女王国・奴国など21カ国
中立:福岡県北東部・田熊石畑遺跡・若宮ノ東遺跡・立岩堀田遺跡・三本松遺跡・前田山遺跡
・城野遺跡など
中立:山口県・王屋敷遺跡など
中立:愛媛県西部・文京遺跡・道後今市遺跡・坪栗遺跡・大窪台遺跡・宇和町清沢集落
・保田遺跡・古田遺跡・西番掛遺跡など
中立:高知県西部・具同石丸遺跡・八束山路遺跡・根々崎遺跡・作屋西の川口遺跡など

訂正後の「倭」

一般的には弥生時代後期の日本は100余国に分れ、卑弥呼の時代には30か国に淘汰されたと理解されています。しかし、魏志倭人伝では「倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國」と記している事から、倭人が住む中で現在は30か国と交流しているという意味で、存在している国の数を表している訳ではありません。結論からすると100余国以下30国以上という事になります。

魏志倭人伝と後漢書東夷伝から倭国は狗邪韓国・対馬国・壱岐国・末盧国・伊都国不彌國の6カ国である事が判ります。魏志倭人伝から女王国は21カ国で構成している事が判ります。女王国の東岸から船で1000里(80〜90q)から先が倭種である事から、その内側が倭である事が判ります。狗邪韓国が倭の北岸の為、そこから南側が倭である事が判ります。

卑弥呼が率いた倭国と女王国が何故、狗奴国1国に苦戦するの疑問でしたが、狗奴国は後漢書東夷伝などで記載されている「東テイ」の中心国なのではないかと推察しました。「東テイ」は20余国で構成されている為、卑弥呼と十分互角に戦えたと思われます。発掘された遺物でも、「倭」と推定される九州北部から中部と中部から南部では大きく異なる為、倭の範囲を女王国の南国境としました。

魏志倭人伝をそのまま読み取り、倭国と女王国を当て込むと、倭の中に、福岡県北東部と山口県、愛媛県西部、高知県西部が空白域がある事が判ります。その中には有力な弥生時代後期の遺跡があり、規模の大小があるものの中には国であったものもあったと思われます。それらの国々は「倭」に属しているものの、卑弥呼とは従属関係が無く、かつ対立関係でも無かった事から「中立」としました。

「倭」の結論

「倭」には倭国の6カ国、女王国の21カ国の他に空白域にも複数の国が存在し、ゆうに30カ国以上はあったと思われます。日本全体として見ても、狗奴国グループ(東テイ?)は20余カ国、倭種にも相当数の国が存在している事から、弥生時代末期の日本が30カ国しか無いという認識は改めた方が良いのではないでしょうか。

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