訂正後の女王国:旁国21カ国

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女王国を再び考察します

邪馬台国とは異なり、魏志倭人伝の中に女王国の位置を指し示す条件は複数存在していますので、その全てに矛盾しないように地図に落とし込めれば、凡その場所を特定する事が出来ます。

魏志倭人伝の中の女王国を指し示す条件
1-女王国より北は戸数、道里の略載を得る事が出来る。
※-女王国より北には略載が記載された対馬国、壱岐国、末盧國、伊都国奴国不彌國がある。
2-其(女王国)の南に狗奴国がある。
※-狗奴国→熊襲→熊本と推察される。官僚のクコチヒコは菊池市出身の豪族菊池氏の祖と推察される。
3-自郡至女王國 萬二千餘里。
※-帯方郡から女王国の国境(奴国の国境と同義 ※日向峠)まで1万2千里。
4-自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國。
※-女王国の北側には一大率が置かれた伊都国がある。
5-女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種。
※-女王国の東側は海である。船で渡ること1千里(80〜90q)余から先は倭種である。
6-又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里。
※-侏儒国の比定地である種子島から渡海と陸行で北方345.6qが女王国の南側の国境。
7-依山島為國邑。
※-倭にある国々の領域(国境)は山や島によって形成されている。

女王国

女王国を構成している旁国21カ国

魏志倭人伝の中で女王国を構成してる旁国21カ国は次に挙げられる国々です。斯馬國・巳百支國・伊邪國・都支國・彌奴國・好古都國・不呼國・姐奴國・對蘇國・蘇奴國・呼邑國・華奴蘇奴國・鬼國・為吾國・鬼奴國・邪馬國・躬臣國・巴利國・支惟國・烏奴國・奴國(略載記事がある奴国と同じ国と思われます)

実際やってみると、ある程度広域だと、幾らでもダジャレやこじつけて地名に当て嵌める事が出来ます。四国説や畿内説はその典型ですが、倭名類聚抄で掲載されている郡や郷の他、大字、小字などを含めると恣意的に位置を決める事が出来ます。

斯馬國
「斯馬國」は一般的には「シマ」と読める為、同じ読みである筑前国志摩郡を挙げる人が多いのですが、女王国の北方に位置する国には略載が記載されなければならない為、「肥前国杵島郡(キシマ)」を選択しました。武雄市にある郷ノ木遺跡は興味深い遺跡で土壙墓の副葬品として発見された小形ぼう製鏡は首長層が保有しとの説がある事から国だった可能性が高いと思われます。

巳百支國
「巳百支國」は「イハキ」と読める為、音の響きから「筑後国生葉(イクハ)郡」としました。

伊邪國
「伊邪國」は一般的には「イヤ」や「イヨ」と読める為、「北高来郡伊佐早」や「伊予国」を挙げる人が多いのですが、伊邪那岐や伊邪那美から「邪」を「ザ」と読み「ィザクニ」。「ィザ」国が後に上下に分れ筑前国上座(ザ)郡と下座(ザ)郡になったと想定しました。有名な平塚川添遺跡だけでなく朝倉市一木の下原遺跡からは日本では最古級(弥生時代中期)のすずりが出土しており、国だった可能性が高い地域です。

都支國
「都支國」は「越支国」の間違いと仮定し「オキ」と読める為、「肥前国小城(オギ)郡」としました。弥生時代の遺跡も多く、4世紀初期に築造された寄居古墳群からは首長が所有していたと思われる後漢時代の方格規矩四神鏡が見つかっています。

彌奴國
「彌奴國」は「ミドゥ」と読める為「筑後国御井(ミイ)郡」、「筑後国三潴(ミズマ)郡」、「筑後国御原(ミハラ)郡」の3郡としました。何れも頭に「ミ」が付き隣り合っている事から元々は「ミ」と呼ばれる国だったものが、後に分割されたと想定しました。版図の広さや後に筑後国一之宮である高良大社や国分寺、国分尼寺、国府などが設置されている事から彌奴國は女王国の中で奴国に次ぐ勢力だった事が推察されます。

好古都國
「好古都國」の読みは難しく「ハカタ」から博多、「コウコツ」や「コウコト」と読むと場所が迷走するようです。斯馬國と同様に女王国の北方に位置する国には略載が記載されなければならない為に当サイトでは博多説は却下します。当サイトでは「コォト」と読んで「豊後国海部郡穂門(ホト)郷」ではないかと推察しています。穂門郷は海部郡の中心地で、弥生時代の遺跡も豊富、古墳時代には海部氏の拠点と大型古墳が複数築かれている事から女王国の時代からその素地があったと思われます。

不呼國
「不呼國」は「フコ」や「フカ」と読む可能性が高く、肥前国佐嘉郡深溝郷なんかは面白いと思います。読みようによっては「フコウ」と読み、往時も「フカムソ」と呼ばれていたようで読みに関しては酷似しています。佐嘉郡深溝郷は佐賀市兵庫町と高木瀬町と推定され、吉野ケ里遺跡とは数キロ圏内で兵庫町には弥生時代後期の大規模な集落である牟田寄遺跡があります。牟田寄遺跡には平安時代の銅印が発見され、鎌倉時代には御家人である高木氏の本貫にもなっていた事から女王国時代から当地の中心的な地位が確立していた可能性が高いと思われます。又、隣の大和町では国府や国分寺が設けられている事から、不呼國時代には深溝郷より広かったのかも知れません。

姐奴國
「姐奴國」は「妲奴國」の間違いと仮定し「タドゥ」や「タノ」と読める為、「筑後国竹野(タケノ)郡」としました。古墳密集地の地名は「田主丸」、現在は「たのしまる」と読みますが、「田主」は読み方によっては「タズ」や「タジュ」とも読める為、かなりの角度だと思います。

對蘇國
「對蘇國」は「トス」と読める為、「肥前国養父郡鳥栖(トス)郷」としました。安永田遺跡は北部九州では珍しい銅鐸の鋳型が発見され、青銅器制作工場的な役割があった事が推察され当然、大きな権力があった証拠でもあります(本行遺跡も安永田遺跡と同程度の青銅器の制作が行われたと推定されています)。柚比本村遺跡の甕棺墓や木棺墓からは赤漆玉鈿装鞘銅剣、細形銅剣、鉄剣、祭殿と思われる弥生時代最大級の大型建物跡などが発見され国だった可能性があります。

蘇奴國
「蘇奴國」は「ソドゥ」や「ソノ」と読める為、「肥前国彼杵(ソノギ)郡」としました。大村市の富の原遺跡は長崎県最大の弥生時代中期から後期の遺跡で成人甕棺墓からは副葬品として鉄戈3本、鉄剣1本が発見され環濠集落だった事も確認されています。

呼邑國
「呼邑國」は「ハヤ」と読める為、「豊後国速見(ハヤミ)郡」としました。日本書紀を信じれば速津媛と呼ばれる女王が居た事から速見郡も国だった可能性は高いと思われます。

華奴蘇奴國
「華奴蘇奴國」は一般的には「カノソノ」、「カナソナ」、当サイトは「カドゥソドゥ」と読み、かなり強引ですが「肥前国神埼(カンザキ)郡」としました(神埼はカナサキとも読める)。有名な吉野ケ里遺跡のある国という事になります。

鬼國
「鬼國」は「ヒ」と読める為、「豊後国日高(ヒダカ)郡」としました。日高郡は日田郡の事で、中心部である日田市にある小迫辻原遺跡には古墳時代初めの豪族の居館跡が発見されており、女王国時代から素地があったと考えられます。さらに、ダンワラ古墳から出土したと推定されている金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は魏の曹操が所有しているものと類似している事から相当身分が高い人物が存在していた事が窺えます。又、豊後国風土記を信じれば久津媛(比佐津媛:ヒサツヒメ)が景行天皇を出迎えている事から、久津媛を女王と考えると国だったと考えられます。

為吾國
「為吾國」は最もと難解で正直判りませんでした。とあるサイトの情報によると宇佐氏の古伝書に為吾國は宇佐郡であると記されているそうなので、ここでは信じる事にしました。

鬼奴國
「鬼奴國」は一般的には「キナ」、「キヌ」、「キト」と読む人が多いようです。当サイトでは「鬼」を「ヒ」と読みたいので「ヒドゥ」と考えましたが、該当する郡や郷は在りませんでした。すると大分郡の「分」が古代は「キザ」や「キダ」と呼ばれていた事を知り、「キドゥ」であれば結構近いと感じました(倭が大倭や、大和になったように鬼奴が大鬼奴→大分になったのかも知れません)。大分市には弥生時代の遺跡も多く銅鏡なども発見されている事からまんざらでもないと思います。

邪馬國
「邪馬國」は一般的には「ヤマ」、「ヤバ」と読む人が多いようです。邪馬台国や投馬国などから「馬」を「マ」と考えるのは普通ですが、当サイトでは少数派の「ヤメ」を推したいと思います。日本書紀が正しければ、八女津媛と呼ばれる女王が登場する事から当然、八女国があった事が考えられ旁国21カ国の中では断然「邪馬國」が最有力候補という事となります。その数百年後には神功皇后による土蜘蛛征伐の際にも山門郡の田油津媛(タブラヤツヒメ・タユツヒメ)を撃っている事から歴代の王は女系だったのかも知れません。個人的には田油津媛はその読みから姐奴國の女王の可能性もあると思います。「姐奴國」は「妲奴國」の間違いと仮定し「タドゥ」や「タノ」、現在の古墳の密集地の地名「田主丸」の「田主」は「タズ」「タジュ」と読める為、本来は「妲奴國」の女王「タズゥのヒメ」が山門郡で敗れた事だったのかも知れません。

躬臣國
「躬臣國」は「躬須國」の間違いと仮定し「クス」と読める為、「豊後国球珠(クス)郡」としました。

巴利國
「巴利國」は一般的には「ハリ」と読める為、「筑前国上座郡把伎(ハキ)郷」とする人が多いですが、現在の朝倉市杷木には杷木神籠石や延喜式の駅など、やや時代の下がった遺跡が目立ち、弥生時代の発展は微妙、さらに、当サイトでは「伊邪國」を「上下座郡」と考えている為に却下しています。多少強引ですが夜須町は野原が広がっていた事から「七板原」と呼ばれていたそうなので、「ハリ」は「ハラ」や「バル」に通じるものを感じます。日本書紀を信じれば朝廷に逆らった羽白熊鷲が荷持田村(筑前国夜須郡賀美郷野鳥村)を根拠地していた事から夜須郡は国の一つで羽白熊鷲はその王と考える事が出来、「ハリ」と「ハネ」はやや似ていると言えば似ていない事もありません(ハリの熊鷲?)。旧夜須郡には有力な弥生時代の遺跡が多数ある事からも国だった可能性が高い地域と言えます。

支惟國
「支惟國」は「キイ」と読める為、「肥前国基肄(キイ)郡」としました。千塔山遺跡は弥生時代末期の環濠集落で青銅製鋤先などが発見されています。

烏奴國
「烏奴國」は「オドゥ」や「オノ」と読める為、「豊後国大野(オオノ)郡」としました。豊後大野市には鹿道原遺跡をはじめ、高松遺跡、高添遺跡、二本木遺跡、陣箱遺跡など多数存在し大分県の中では弥生時代の遺跡の密集地帯となっています。日本書紀を信じれば、大野郡は土蜘蛛の巣窟だた事から朝廷に対しては快く思っていなかった国だったかも知れません。

奴國
「奴國」は女王国の中では最大の国である事から筑前国那珂郡、御笠郡、糟屋郡の3郡支配と想定しました。ただし、海岸部は倭国を構成している不彌国によって抑えられ、単独交易の権益を得られなかったと推定しています。当然、略載が記されている奴国と旁国21カ国の奴国は同じという事となります。

※国名の訂正(都支→越支・姐→妲・躬臣→躬須)については「井上悦文の草書体で解く 邪馬台国の謎」を参照。

女王国を構成している旁国21カ国

上図を見て判るように、弥生時代の佐賀平野は現在より海面が高かった事から有明海が大きく内陸部まで浸食し、全ての国がある程度標高がある山の麓や台地に形成されていました。当然、邪馬台国のような35万人(7万戸)もある大国がある可能性は極めて低いと思われます。

女王国を構成している旁国21カ国一覧
番号国名読み倭名類聚抄読み現在地
1斯馬國シマ肥前国杵島郡キシマ佐賀県武雄市・大町町・江北町・白石町
2巳百支國イハキ筑後国生葉郡イクハ福岡県うきは市
3伊邪國イザ筑前国上座郡福岡県朝倉市・東峰村
筑前国下座郡福岡県朝倉市
4都支國オキ肥前国小城郡オギ都支→越支:佐賀県佐賀市一部・多久市・小城市
5彌奴國ミドゥ筑後国御井郡ミイ久留米市一部・小郡市一部・三井郡大刀洗町一部
筑後国三潴郡ミズマ久留米市一部・柳川市一部・筑後市一部・大川市
筑後国御原郡ミハラ小郡市・三井郡大刀洗町
6好古都國コォト豊後国海部郡穂門郷ホト大分県臼杵市・津久見市・佐伯市
7不呼國フコ・フカ肥前国佐嘉郡深溝郷フコウ(フカムソ)佐賀県佐賀市兵庫町・高木瀬町
8姐奴國タドゥ・タノ筑後国竹野郡タケノ姐→妲:福岡県久留米市一部・うきは市一部
9對蘇國トス肥前国養父郡鳥栖郷トス佐賀県鳥栖市
10蘇奴國ソドゥ・ソノ肥前国彼杵郡ソノギ長崎県長崎市・大村市・西海市など
11呼邑國ハヤ豊後国速見郡ハヤミ大分県別府市・杵築市・宇佐市一部・由布市一部
12華奴蘇奴國カドゥソドゥ肥前国神埼郡カンザキ佐賀県佐賀市一部・神埼市
13鬼國豊後国日高郡ヒダカ大分県中津市一部・日田市
14為吾國イゴ豊前国宇佐郡ウサ大分県豊後高田市の一部・宇佐市
15鬼奴國キドゥ豊後国大分郡オオキダ大分県大分市・別府市一部・由布市
16邪馬國ヤメ筑後国山門郡ヤマト福岡県柳川市・みやま市
筑後国上妻郡ツマ久留米市の一部・八女市・筑後市・八女郡広川町
筑後国下妻郡ツマ福岡県筑後市一部・みやま市一部
17躬臣國クス豊後国球珠郡クス躬臣→躬須:大分県九重町・玖珠町
18巴利國ハリ筑前国夜須郡ヤス福岡県飯塚市・朝倉市一部・朝倉郡筑前町
19支惟國キイ肥前国基肄郡キイ佐賀県鳥栖市一部・三養基郡基山町
20烏奴國オドゥ・オノ豊後国大野郡オオノ大分県豊後大野市
21奴國ドゥ・ナ筑前国那珂郡ナカ福岡県福岡市一部・春日市・大野城市・那珂川市
筑前国御笠郡ミカサ福岡県筑紫野市・大野城市・太宰府市
筑前国糟屋郡カスヤ福岡県宇美町・篠栗町・志免町・須恵町・新宮町
久山町・粕屋町

女王国を構成している旁国21カ国の主要な遺跡
番号国名構成史跡場所
1斯馬國郷ノ木遺跡:弥生時代終末期、小形ボウ製鏡、鉄製の刀子佐賀県武雄市武雄町
2巳百支國屋形古墳群・若宮古墳群・朝田古墳群福岡県うきは市
3伊邪國平塚川添遺跡:多重環濠集落、出土品多数、国指定史跡福岡県朝倉市
4都支國寄居古墳群・生立ヶ里遺跡・土生遺跡群佐賀県佐賀市小城市
5彌奴國旗崎遺跡(奮棺墓や瓦器)・隈遺跡( 餐棺墓や石棺墓)福岡県久留米市
姫方遺跡:弥生時代から古墳時代にかけての複合遺跡、県指定史跡佐賀県みやき町
6好古都國下山古墳:5世紀中頃の海部民首長墓、国指定史跡大分県臼杵市
亀塚古墳:4世紀末〜5世紀初頭の海部民首長墓、国指定史跡大分県大分市
7不呼國牟田寄遺跡:弥生時代後期の大規模な集落佐賀県佐賀市兵庫町
8姐奴國田主丸大塚古墳・寺徳古墳・中原狐塚古墳・西館古墳・森部平原古墳群福岡県久留米市
9對蘇國安永田遺跡:弥生中期の青銅器鋳造の工房を有する集落跡、国指定史跡佐賀県鳥栖市
藤木遺跡:弥生時代の集落跡・墳墓、中世の集落跡、大規模な環濠集落
10蘇奴國富の原遺跡:環濠集落、鉄戈と鉄剣が出土、甕棺・石棺墓、祭祀遺構等が発掘肥前国彼杵郡
11呼邑國円通寺遺跡:弥生時代後期後葉〜終末期の集落大分県別府市
12華奴蘇奴國吉野ヶ里遺跡:弥生時代の大規模な環濠集落、国特別史跡佐賀県神埼市
13鬼國小迫辻原遺跡:弥生時代から古墳時代にかけての集落跡や墳墓大分県日田市
14為吾國小部遺跡・川部遺跡・東上田遺跡・高森古墳群・別府遺跡・上原遺跡など大分県宇佐市
15鬼奴國下郡遺跡、尼ヶ城遺跡、雄城台遺跡、守岡遺跡大分県大分市
16邪馬國徳益八枝遺跡・磯鳥フケ遺跡・蒲船津江頭遺跡・扇ノ内遺跡福岡県柳川市
田佛遺跡・蔵数長原山遺跡・石人山古墳・蔵数遺跡群・高江遺跡など福岡県筑後市
亀ノ甲遺跡・深田遺跡・六反田遺跡・八女古墳群など福岡県八女市
17躬臣國四日市遺跡:弥生時代中期後半と弥生後期終末〜古墳時代初頭の集落大分県玖珠町
18巴利國東小田峯遺跡:弥生時代の一大拠点集落、墳丘墓からは豊富な副葬品福岡県朝倉郡筑前町
19支惟國千塔山遺跡(環濠集落、青銅製鋤先)、久保田遺跡(甕棺から鉄戈が副葬)佐賀県基山町
20烏奴國鹿道原遺跡:大規模な集落・小牧山古墳群(4世紀)豊後国大野郡
21奴國須玖岡本遺跡:弥生時代中期から後期にかけての大規模な遺跡群筑前国那珂郡

女王国の結論

「女王国」とは所謂「国家」では無く、伊都国の女王である卑弥呼に従った国々の総称と捉えることが出来ます。「此女王境界所盡」の一文は女王国が卑弥呼の権限が及ぶ国々である事を示していると言えます。女王国と邪馬台国を同義としている説が多いと思いますが、上記の地図を見てみれば判るように、女王国の代わりに邪馬台国を嵌め込んでみると旁国21カ国を配置する場所が無くなり矛盾します。もし、現在の宮崎県当たりに旁国21カ国を当てても、伊都国の一大率とは邪馬台国を挟む形になる為、領土経営的にも非効率となり矛盾します。結論からすると邪馬台国は九州には無いという事になります。

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