伊都国(私論)

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伊都国の存在感

伊都国・概要: 邪馬台国が存在している仮定すると伊都国の存在が際立って異常な存在となります。魏志倭人伝で伊都国の事を表現していると思われるのは次の通りです。

 (1)−「 東南陸行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戸 」

 (2)−「 世有王皆統屬女王國 」

 (3)−「 郡使往來常所駐 」

 (4)−「 自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史 」

 (5)−「 王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯 」

 (6)−「 其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐歴年乃共立一女子爲王 」

まず、伊都国の大きな特徴の一つに「国王」が存在している事が挙げられます。魏志倭人伝で、「王」又は「女王」がいたのは邪馬台国を外すと「倭国」、「伊都国」、「狗奴国」の3カ国しかありません。しかも、「倭国」は複数の国が集まった共同体のような組織で、卑弥呼や壱与などは共立して王を立てた経緯もあり、個別の王が居たのは2カ国だけとなります。又、伊都国の国名には「都」の字が使われ、中国から見て唯一卑下した字を使わない国でもあります(倭(イ)の都のある国が転じた?)。

(1)の「東南陸行五百里到伊都國」の一文から隣接する末盧国から東南方向から陸行5百里に位置する事が判ります。しかし、現在一般的である末盧国の位置は唐津とされ、伊都国があったとされる糸島は唐津から見ると北東に位置し距離も中途半端となり矛盾します。例えば東唐津半島の北端に位置する呼子港を末盧国領内(呼子が末盧国の中心という意味では無い)として宿泊したとすると伊都国がおおめに見ると東南東に位置し、距離約46キロは陸行五百里と良く合います。陸行1日は、魏志倭人伝での三百里(基本的に水行1日の3分1が陸行1日)、25〜30キロ程度と考えた為、末盧国、伊都国間は2日間かからない距離という事になります。私論では良く言われる長里、短里という概念は無く、魏志倭人伝では、単純に1日船で進んだ距離を千里と表現し、1日歩いて進んだ距離を三百里表現しているように感じます(障害物の無い平坦地では水行1日=約84キロ、陸行1日=約28キロ)。簡単に言うと行程によって進み安いと長く、難儀すると短くなりますが、当時の「魏」の立場からすると、正確な距離よりも行程と日数の方が必要だったと思われます。その後の記述によると、伊都国の港で書物や貢物の検査が行われている事から実際は末盧国を経由せず、壱岐国から直接伊都国の港に乗る付けたと考えるのが通常で、最初の記述は巡視の行程と考えらえます。

(1)の「到」の字は狗邪韓国と伊都国にしか利用されておらず、狗邪韓国は倭(国)に到った事を意味し、伊都国は倭国の首都で目的地に到った事が意味していると考える事が出来ます。実際、対馬国・壱岐国・末盧国・伊都国の4カ国だけが、戸数や官名、方角、距離以外の概略が記されており、帯方郡の役人は伊都国より先には訪れていないとも考えられます。表記の仕方も、伊都国より前は、「方位」・「距離」・「地名」の順で記されていたものの、伊都国を堺にして「方位」・「地名」・「距離」と変化している事から、その後の国々は伊都国を起点として距離と方角が示しているとの「放射説」が生れています。

伊都国が倭国の首都で、目的地であるならば、「放射説」はかなり有効な説と考えます。又、「到」の字は目的地の中心都市に到という意味を持ち、「至」はその途中経過である事から国境まで至を意味しています。それをまとめると、帯方郡→狗邪韓国の都「」水行7千里・狗邪韓国の都→対馬国の国境「至」渡海千里・対馬国の国境→壱岐国の国境「至」渡海千里・壱岐国の国境→末盧国の国境(佐賀県唐津市呼子町)「至」渡海千里・末盧国の国境→伊都国の都(福岡県糸島市有田)「」陸行5百里・伊都国の都→奴国の国境「至」(福岡県福岡市西区吉武)陸行百里・伊都国の都→不弥国の国境(叶ヶ嶽と長垂山を結んだライン)「至」陸行百里という事になります。

女王国までの行程

伊都国1

(1)の「有千餘戸」の一文から伊都国は魏志倭人伝で戸数が記されている国々の中で最小である事が判ります。この一文から多くの人は伊都国が小国だったとの印象を受けるかも知れませんが、魏志倭人伝の20数年前に完成したという「魏略」には伊都国の戸数を「戸万余」と記しています(個人的は弥生時代で一万戸の国は大き過ぎると思います)。当然、20数年で戸数が10分の1になる事は考えられないので何らかな細工が行われたと思われます。相当偏った推論ですが、魏志倭人伝を編纂した陳寿は伊都国の戸数を1万2千戸と仮定し、その戸数を架空の国である邪馬台国に7千戸、投馬国に5千戸を振り分け、それぞれ10倍(7万戸、5万戸)とし、代わりに伊都国を10分1にしたのではないかという説を立てました(因みに平原遺跡1号墳の大きさも魏志倭人伝では10倍)

(1)の「副曰泄謨觚柄渠觚」の一文は伊都国に属する副官の名前が「泄謨觚」と「柄渠觚」だった事を表しています。「倭」の国々の中で副官の名前が「卑奴母離」であるのは「対馬国」、「壱岐国」、「奴国」、「不弥国」の4カ国、異なるのは「伊都国」と「邪馬台国」、「投馬国」の3カ国となります。当サイトでは邪馬台国、投馬国は倭種と考えている為に事実上伊都国だけが「卑奴母離」がいない事になり、もし、邪馬台国が「倭」に存在し首都的存在だったとしたら、当然、伊都国と投馬国も副官が「卑奴母離」であるはずです。さらに、副官が2名存在するのも伊都国と邪馬台国の2カ国で上位に位置していた事が窺えます。一般的に卑奴母離は「ヒナモリ」と呼ばれていますが、「イドモリ」=「伊都守」と考えると、伊都国から派遣された監視役のような存在で、文字通り伊都国を守る役割を持っていたとも考えられ、当然、伊都国には「卑奴母離」がいない事になります。

伊都国の官僚

(2)の「世有王皆統屬女王國」の一文、当サイトでは何度か説明しましたが、「女王国」というのは一般的に言われている邪馬台国と同義では無く、倭(国)の女王の意向が及ぶ範囲である国々を中国側が揶揄した「存在」である事から文中にある21カ国の事を指す事が文脈から明確に判ります。「女王国」という意味が明確になると、先程の一文の意味は、「伊都国の国王は女王国に属している国々(21カ国)の皆を統属している」と訳せ、現在一般的に訳されているものとは全く逆になります。因みに日本の漢文学者である白川静が提唱とした訳し方によると、「伊都国の国王が女王国を統屬している。」となる為、当方と同じく伊都国が上位な存在となります。「女王国」という単語は魏志倭人伝上で5カ所出現しますが、全て邪馬台国と置き直すと、特に畿内説では成立しない事となり、九州説でもかなり限定される事になり、女王国と邪馬台国は同義ではない事が判ります。

又、陳寿が様々な資料を調べた結果、伊都国だけが中国側から認められた王が代々いた事を確信し「世有王」と書いた訳である事から、当然、建武中元2年(57年)に「漢 委奴 国王」印を印綬した委奴国王や安帝永初元年(107)に朝貢した倭国王師升も伊都国王だった可能性が極めて高いと言えます。さらに、男王→卑弥呼→男王→壱与が連綿と王位を継承している事も「世有王」を表している事は間違い無く、一方、邪馬台国や狗奴国は中国側が認めた「世有王」が居たとは記されていません。これらの事から卑弥呼は伊都国の国王兼、倭国王兼、倭王だった事が判ります。

伊都国の系図

(3)の「郡使往來常所駐」の一文は伊都国に帯方郡の役人が常駐するという意味で、邪馬台国が存在し首都的な役割を持っているならば、常識的に考えても帯方郡の役人は邪馬台国に訪れ常駐するはずです。軍事的に秘匿した、狗奴国との闘いで危険を回避したなどを理由に挙げる人が多いようですが、7万戸(35万人)の首都を秘匿する事は事実上不可能で、その事実を知られた後の危険性を考慮するとそのような行為は絶対に出来ません(隠すには巨大過ぎる)。狗奴国との闘いについても周囲を城柵で囲い楼観を設けて兵士で守らせている事からも、逆に内部に滞在した方が安全とも感じます。又、「女王国」と邪馬台国は同義では無い事から、女王国の南に位置している狗奴国と邪馬台国は国境を接していた可能性は全くありません。もし、同義と仮定すると、畿内説では成り立たなくなり、九州説では現在の大分県の東沿岸部に限定される為、どちらにしても狗奴国と邪馬台国は国境を接していた可能性は全くありません。これらの事からも伊都国が倭国の首都だったと考えるのが自然と思われます。

(4)では「一大率」と呼ばれる女王国に属している国々(21カ国)の法令を遵守させる為の監察、検察機関が伊都国に設置されていた事が記載されています。ここでも、本来、邪馬台国が首都として存在するならば当然、「一大率」は邪馬台国の国内に設置されるべき施設です。21カ国の国々はこの「一大率」を大変恐れている事からも伊都国の優位性は疑いようもなく、首都的存在だった事が窺えます。特に、畿内説では何故伊都国に「一大率」が設置されている事を明確に説明する事が出来ません。又、卑弥呼は宗教的な象徴としての存在で、伊都国が政治を司った事から邪馬台国には帯方郡の役人が常駐せず、行政機関が設けられなかったとの説がありますが、一般的には王の宮殿近くに政治、行政機関が設置され多くの人々が集まり都として発展したと考えるのが普通で、弥生時代に宮殿だけで7万戸、35万人が維持出来たとは到底考えられません。

(5)では王(倭国王又は伊都国王かは判別不可能)が洛陽や帯方郡、諸韓国に使節を派遣する場合や、逆に帯方郡などの使節を迎え入れた場合、伊都国の港で文書や賜物が改められ、女王に迷惑が掛からないようにした事が記載されています。伊都国には入国管理局のような機能を持つ施設があった事が窺えます。(1)では末盧国で上陸し東南陸行五百里で伊都国に到った事が記載されていますが、あくまでも地誌編纂の為だけの事で、基本的に大陸との通信や交易は伊都国にある港から直接行き来したと考えらます。

(6)の「其国」とは文脈から伊都国(文章的には伊都国より前の女王国とも考えられますが、性質上当てはまりません。)を指すと考えられる事から、伊都国の国王(倭国王師升)が在位70〜80年頃に倭国が乱れ(伊都国の国王は倭国の盟主で、後に女王国と揶揄された21カ国にも強い権限を有した事から、国王の王位継承を巡って派閥争いが激しかったと思われます)、数年後共立して女子を王としたと訳せます。女王は伊都国の国王でもあり倭国をまとめる立場にあった事が窺えます。又、当サイトで何度か説明しましたが、倭国と女王国とは明確に異なる事から、女王国に属する21カ国と、狗奴国、以外の6カ国(狗邪韓国・対馬国・壱岐国・末盧国・伊都国・不弥国)が倭国を構成したと推察されます。一般的に言われる倭国大乱は大規模な争乱と解釈されますが、当サイトでは倭国を構成する伊都国を中心とする6カ国内の権力闘争と考えています。

伊都国の略図

弥生時代の王墓

名称
場所
国名
時代
吉武高木遺跡福岡県福岡市西区吉武紀元前3世紀末〜紀元前2世紀初め
三雲南小路遺跡(1号墳)福岡県糸島市三雲伊都国紀元前1世紀後半
三雲南小路遺跡(2号墳)福岡県糸島市三雲伊都国紀元前1世紀後半
井原鑓溝遺跡福岡県糸島市井原伊都国1世紀末期
須玖岡本遺跡福岡県春日市岡本奴国1世紀初期
平原遺跡福岡県糸島市有田伊都国2世紀末から3世紀初期

日本全国で弥生時代の王墓と呼ばれるものは6カ所しか無く、その全てが九州北部に集中しその内4カ所が伊都国の国王(1カ所は王妃)の墳墓と推定されています。井原鑓溝遺跡は江戸時代に発見された為、遺物の殆どが散逸しましたが、周辺から見つかった土器などから1世紀末期に築造されたと推定され、1世紀末期は後漢の光武帝から建武中元2年(57)に「漢委奴国王」の金印を賜った委奴(イド=伊都)国王と同時代に重なる為、その墳墓とも云われています(一般的には漢の奴の国王と訳される為、奴国の国王が賜ったとされます)。近くに鎮座する細石神社には「漢委奴國王」の金印が社宝として伝わり、江戸時代に盗難にあったとの伝承が伝えられています。

一般的に平原遺跡は2世紀末から3世紀初期に築造されたと推定される為、永初元年(107)に生口160人を献じ、謁見を請うた倭国王帥升の墳墓という説もありますが、副葬品から女王の墳墓と考えるのが一般的です。魏志倭人伝から卑弥呼の前任の王は男王だった事が記載されている為、現在の考古学上は時代が僅かに異なるものの女王である卑弥呼の墳墓と考えます。しかし、卑弥呼の墳墓は魏志倭人伝によると「径百余歩」、当時の「歩」は大凡145cmとされる事から100歩は約145mとなり、平原遺跡の1号墳の直径は約14mと比べると、10分1しかなく殉葬者も概ね10分1と大きく異なります。

例えば畿内説で卑弥呼の墳墓として有力な箸墓古墳(奈良県桜井市箸中)は毎日五百人前後の人が築造に携わると8年、延べ123万人になるとの説があり、吉野ヶ里遺跡などから、弥生時代の1つの国は概ね3千から5千人規模で構成させれていた事が推察される為、到底箸墓古墳のような巨大古墳の築造は不可能と思われます。又、卑弥呼の死後、男王が跡を継ぎましたが国内が服従せず殺し合いの末、千人余りの犠牲者が出た事が記載されている事からも到底巨大な古墳を造るような世情ではなかったと思われます。うがった見方をすると、男王は卑弥呼とは政敵(もしかしたら、伊都国王族の直系)だった事から政治に混乱が生じ、平原遺跡1号墳で発見された40枚にも及ぶ鏡が悉く細かく割られていたのもそうした政治的な要素が絡んでいるとも考えられます。

逆に卑弥呼の宗女である壱与が女王に抜擢されると、改めて墳墓を整備して、墳墓が丁度東南方向に変え(日向峠より上る太陽の日が被葬者の股間に当たるように計画されたという説もあります)、鳥居のような柱跡や、諏訪大社の御柱(推定:直径70cm、高さ20m)のような象徴的な構造物を建てる事で、宗教施設として祭祀が行われたと思われます。当然、これらの事は男王では無く、壱与の指示によるものと考えられ、壊された鏡が脚元に纏められた一方で、集めきれない破片が土壙の下で見つかっているなどの謎の一端を説明する事が出来ます。正し、平原遺跡1号墳の正確な築造年代は2世紀から古墳時代まで所説あり確定された訳では無く(同年代の北部九州地方で割竹形木棺が採用されているのが異例)、中国製の鏡が2面しか無いのも卑弥呼の墳墓としては微妙な印象を受ける事も確かです。しかし、平原遺跡1号墳の副葬品の量、質としては現時点で日本最高峰である事は間違いありません。

平原遺跡1号墳

平原遺跡1号墳の遺物

名 称
個数
寸法
概要
内行花文鏡5面直径46.5cm日本最大、重量約8キロ、2〜3世紀、三種の神器の1つで伊勢神宮に祭られている「八咫鏡」の直径が47.0cmとされる為、類似性が指摘されています。
方格規矩鏡32面径16〜20cm程度2〜3世紀、尚方作流雲文縁方格規矩四神十二支鏡・尚方作流雲文縁方格規矩四神鏡・尚方作鋸歯文縁方格規矩四神鏡・尚方作鋸歯文縁方格規矩四神十二支鏡・銘帯鋸歯文縁方格規矩四神十二支鏡・陶氏作鋸歯文縁方格規矩四神十二支鏡・陶氏作鋸歯文縁方格規矩四神鏡・無銘鋸歯文縁方格規矩四神鏡
き龍文鏡1面直径16.5cm前漢末期
内行花文鏡2面直径18cm 
ガラス製勾玉3個長さ3.3cm2〜3世紀、装身具
メノウ製管玉13個約2.1cm2〜3世紀、装身具、管玉を連ねて手首飾りとして利用されたものと推定されています。
ガラス丸玉約500個 
ガラス小玉約500個2〜3世紀、装身具、ネックレスとして利用されたものと推定されています。
ガラス管玉役30個長さ2cm2〜3世紀
連玉約900個装身具
耳とう破片3個2〜3世紀、装身具、中国の女性がイヤリングとして利用されたものと同類と推定されています。当時代では日本で唯一とも云われています。
素環頭大刀1振長さ約70cm鉄製、魏志倭人伝で卑弥呼が賜った「五尺刀」との類似性が指定されています。

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