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 神社山門: 武田八幡宮

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武田八幡宮

武田八幡宮(山梨県韮崎市神山町)
【 概 要 】武田八幡宮は何時頃から祀られているのかは諸説有りますが、武田信義が当地の領主になると氏神として定め崇敬庇護されるようになりました。その後も武田家宗家からも崇敬の対象となり、社領の寄進や社殿の造営などが随時行われ社運も隆盛しました。天正10年(1582)に武田家が滅ぶと、存在も危ぶまれましたが、その後に領主になった徳川家康から天文11年(1583)に社領が安堵され、江戸時代にも歴代甲府領主によって庇護されました。現在の社殿は室町時代に建てられた貴重な建物で国指定重要文化財に指定されています。

【 場 所 】山梨県韮崎市神山町北宮地

【 構 造 】−入母屋、桟瓦葺き、三間一戸、八脚楼門

【 備 考 】−武田八幡宮の信仰の前身は武田武大神を祭る祠だったとされ、武田武大神は日本武尊の子供とされる武田王と伝えられています。武田王の事が掲載されている「ホツマツタヱ」によると日本武尊が尾張国で結ばれた宮簀媛との子供で、同腹の弟として佐伯命(佐伯王)がいて尾張国の丹羽建部君の祖になったと記されています。宮簀媛については日本書紀、古事記(美夜受比売)でも記され尾張国造の乎止与命の娘で、日本武尊と結ばれ、尊が死没すると形見である草薙剣を御神体とする熱田神宮(愛知県名古屋市)とされます。日本書紀、古事記には武田王の記述がなく「ホツマツタヱ」だけですが、その「ホツマツタヱ」も日本に漢字が流通する以前の神代文字で表現されている扱いが難しい資料とされます。一般的には江戸時代に神道家によって制作された偽書説が有力で、それが事実とすれば武田王の伝説自体が江戸時代に流布された事になります。確かに山梨県には日本武尊の伝説を伝える社寺は多数存在しますが、その子供で系譜上は仲哀天皇の弟でもある武田王が縁もゆかりもない当地に配されたのかは疑問が残ります。当社近くに鎮座する諏訪神社の南西に築かれた「わに塚」は王仁塚、鰐塚とも言い、江戸時代後期に編纂された「甲斐国志」によると住民の口碑では武田王が当地に設けられた御所で政を行い、薨じると塚を設けて葬られたと伝えられている事が記されています。ここで、住民の伝承を置いといて、単純に王仁族の墳墓と仮定すると、音読みは「わに」ですが訓読みだてと「王仁=おうじん=応神=八幡神」の図式が成り立ち、八幡神が祭られるようになったと考えると極めて判りやすいと思われます(普通に和邇部臣の墳墓だった可能性もあります)。江戸時代に入り、識者が武田王の存在を知ると、旧領主だった武田家を惜しみ関係性があるような伝説を作り上げたのかも知れません。

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