・毛利空桑は寛政9年(1779)に熊本藩の飛地だった豊後国大分郡高田郷常行で、藩の藩医だった父毛利太玄と母阿秀の2男として生れました。
日出の脇蘭室から漢学、日出の帆足万里から儒学、熊本藩校時習館の大城霞坪から儒学、福岡の亀井昭陽に古文辞学を学びました。
文政7年に高田郷常行に戻り私塾である知来館を開き熊本藩鶴崎郡代から給米を受けています。
知来館では大分郡高田郷常行に詰めている熊本藩士の子弟の教育だけでなく、毛利空桑から学びたいと全国各地から門弟が集まり総勢1千人を越えたそうです。
「文ありて武なきは真の文人にあらず」「武ありて文なきは真の武人にあらず」が信条で、空桑が説いた尊皇思想は土佐や府内の勤皇の有志に大きな影響を与え長州藩の吉田松陰や岡藩の小河一敏とも交流があったとされます。
安政元年には伊予三島村に招かれ私塾「日新館」の創設に尽力し、明治2年には兵学教授所「有終館」総括、権大属を勤め明治7年に県参事、明治8年には六等判事を兼任しています。
毛利空桑旧宅は安政4年(1857)に建てられた建物で、木造2階建て、切妻、桟瓦葺き、平入、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、1階は5部屋、2階は3部屋で構成され、質素ながら式台付の玄関や床の間付きの座敷等があり「天勝堂」と呼ばれました。
私塾は同じく安政4年(1857)に建てられた建物で、木造2階建て、切妻、桟瓦葺き、平入、外壁は板張り、1階は門弟が日常生活を営む空間で、2階が講義室で構成され講義は一般的には朝講、午講、夜講が行われ、その他に詩会と文会が開催され「」と呼ばれました。
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