・当地は「北台家老丁」と呼ばれ、家老等の重臣や上級武士の屋敷が設けられていた所で、文政5年〜文政6年(1822年〜1823年)に北台武家屋敷・南台武家屋敷の居住者を記録した「居宅考」によると宝暦年間には120石取の相川東蔵の居宅として利用されていました。
その後、中根斎、岡三郎左衛門が屋敷主となり、藩主の休息所として設けられた御用屋敷「桂花楼」となっています。 「町役所日記」によると、天保3年(1832)に岡三郎左衛門は「桂花楼」と共に大手広場にあった牡丹堂に移っています。文政年間(1818〜1830年)以降に大原家が屋敷主となり、嘉永年間(1848〜1853年)の藩士帳には200石取の用人大原文蔵、明治元年に描かれた「藩士住居地図」には大原家の名を見る事が出来ます。
大原家は杵築藩の上席家老等の要職を歴任した家柄で、屋敷も一般的な武家屋敷と比べると規模が大きく、意匠を優れ、庭園もよく整備されています。玄関は入母屋屋根で、桁行2間、梁間1間の式台付き、その奥は10帖の玄関ノ間があり、その左には8帖の次ノ間、その奥が10帖の座敷があり、これらが接客空間となっています。
次ノ間と座敷の外側には縁が設けられ、回遊式庭園と一体となって眺められ、室内も当家で最も格式の高い意匠が採用されています。
建物の右半分が家人の日常生活を営む空間で、家人用の玄関が設けられ、居間や仏間、台所等が配されています。
当地が杵築市北台南台伝統的建造物群保存地区に選定されると、大原邸は伝統的建造物に指定されています。
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