武家屋敷: 旧竹田荘

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旧竹田荘:略データ
・場 所・大分県竹田市竹田
・建築年・昭和7年
・構 造・木造2階建て、西面切妻、東面入母屋、桟瓦葺き
・文化財・国指定史跡
・指定日・昭和23年1月14日
・概 要・田能村家が岡藩の藩医を務めていた家柄で、竹田は藩医だった田能村碵庵の次男として生れ、藩医は兄が継いだ為、医業は継がず寛政10年に藩校である由学館の出仕が命じられて以降は学問に長じる事になりました。

特に豊後国志の編纂、豊後風土記の校訂で功績があり文化10年に隠居しています。

その後、様々な文化人との交流を行い、文政9年に長崎で遊歴し来舶清人や長崎派の画家から中国絵画の技法を学ぶと画家としての一面も持ちました。

当時の岡藩で南画を描ける人が少なかった事から当地の南画の先駆者として大きな影響力を与え「暗香疎影図」「稲川舟遊図」「曲渓複嶺図」等の作品を残しています。

現在の旧竹田荘の母屋は寛政元年に城下で発生した大火で類焼した事から、翌年の寛政2年に再建された建物で、木造2階建て、西面切妻、東面入母屋、桟瓦葺き、特に2階は「對翠楼(雪月楼)」と名付け部屋があり、そこから眺めは九重連山や断崖、岡城下の町並みを見下ろす事が出来ます。

草際吟舎は土蔵造2階建、切妻、桟瓦葺、1階を茶室、2階を書庫としています。

補拙廬は木造平屋建、切妻造、桟瓦葺、自身の創作活動や弟子の住まい、塾等で利用されました。

明治年間に草際吟舎と補拙廬の建物が老朽化の為に解体されましたが、昭和7年に図面等から再建されています。

旧竹田荘は貴重な事から名称「旧竹田荘 附田能村竹田墓」として国指定史跡に指定されています。

旧竹田荘:付近地図
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毛利空桑旧宅能見邸大原邸旧竹田荘
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