・行徳家は武蔵七党の流れを汲む私市党の一族で、当初は「熊谷」姓を掲げ南北朝動乱時に九州に下向し南朝方に与していました。その後は土豪として独立を保っていたようですが、天正年間に島津家との筑前岩屋合戦で敗北した事で、福岡県竹野郡(浮羽郡)行徳村に落ち延び、地名に因み「行徳」姓に改め帰農しています。
江戸時代中期以降は久留米藩主有馬家の御典医等を歴任し、本家から分家し当家の初代となった行徳元亮は大坂で医術を学び、文政7年(1824)に当地で眼科医を開業しています。
現在の建物は天保13年(1842)に2代目行徳元遂が建てたた建物で、木造平屋一部2階建、寄棟、茅葺、平入、桁行15.7m、梁間10.8m、北面突出部は木造平屋建て、寄棟、茅葺、桁行2.9m、梁間9.8m、延べ床面積254u。
間取りは曲屋形式で、土間が広く大庄屋のような部分も見られる一方で、入母屋屋根の式台付の玄関や座敷等、武家屋敷の格式を備えています。
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