大分県の江戸時代には杵築藩、日出藩、府内藩、佐伯藩、臼杵藩、岡藩、森藩が存在し日田地方は天領として幕府から代官が派遣されていました。臼杵市二王座は臼杵藩の武家地で丸毛家屋敷や稲葉家下屋敷などの武家屋敷の遺構や緩やかな坂道には石畳なども整備され、美しい町並みが続いています。
竹田市殿町では低い石垣の上に土塀や板塀が続き長屋門、表門、土蔵などが当時の武家町の名残を伝えています。
杵築市北台も武家町の町並みが残っている町で、筋状に延びる坂道には上級武家屋敷の白壁が連続し印象深い景観となっています。
佐伯市城下西町は白漆喰が美しい土塀が続く町並みで格式の高さそうな門が点在、「日本の道100選」にも指定されるなど整備が進んでいます。
日出町本町も良く武家町の雰囲気がある町で武家屋敷の主屋部分は失われているものの、石垣や土塀、門などが残され藩校である致道館も移築保存されています。
杵築城:城下町周辺の画像・写真

塩屋の坂から見下ろした杵築城下の町並み | 
酢屋の坂から見下ろした杵築城下の町並み |
【 杵築城:城下町・歴史 】−杵築城は、室町時代初期の明徳5年(1394)に木付頼直によって築かれたのが始まりとされます。
木付氏は大友親秀の6男である木付親重を祖とする事から大友氏の庶流として本家に長く従っていた為、戦国時代に入ると薩摩の島津家と大友家との対立に巻き込まれ、天正14年(1586)には島津方の新納忠元の侵攻を受け、当時の城主木付鎮直は2カ月間に渡る杵築城での籠城戦の末、撃退しています。
しかし、文禄・慶長の役で主家である大友義統が文禄2年(1593)の平壌城の戦いで敵前逃亡したとの嫌疑を懸けられ改易となり、その子供である大友統直が関門海峡で入水自害すると、鎮直も杵築城で自害しています。
その後、当地は豊臣家の蔵入地となり豊臣系大名である前田玄以、宮部継潤、杉原長房等が管理しています。
慶長5年(1600)に発生した関ヶ原の戦いの功で当地は細川忠興の所領となり、杵築城には重臣の有吉立行、慶長6年(1601)には松井康之が配されています。
寛永9年(1632)に細川忠利が熊本藩に移封となると小笠原忠知が4万石で入封すると杵築藩を立藩し、杵築城には藩主居館と藩庁が設けられています。
正保2年(1645)に松平英親が3万2千石で入封すると、以後、明治維新まで松平家(能見家)が藩主を歴任しています。
杵築城:城下町周辺の画像・写真

酢屋の坂沿いの武家屋敷の町並み | 
杵築市北台武家屋敷の町並み |
【 杵築城:城下町・特徴 】−杵築城の城下町の特徴は谷あいに町人町を設け、それを挟む込むように南側の台地と北側の台地に武家町を町割りする独特な形状をしており、日本唯一の「サンドイッチ型城下町」とも呼ばれています。
特に南側の台地と北側の台地を結ぶ塩屋の坂と酢屋の坂は一直線上に配されている事から印象的な町並み景観を有しています。
北台武家屋敷跡と南台武家屋敷跡には現在も複数の上級武家屋敷の遺構が残され貴重な事から杵築市北台南台伝統的建造物群保存地区にも選定されています。
杵築城:城下町周辺の画像・写真

杵築市北台武家屋敷の町並み | 
杵築市北台武家屋敷の町並み |
杵築市北台南台伝統的建造物群保存地区周辺の地図(案内図)
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