・細川刑部家は正保3年(1646)に肥後藩初代藩主細川忠利の弟にあたる興孝が2万5千石と、熊本城内にあった庄林隼人正の屋敷を与えられ起した細川家の分家です。
寛文8年(1668)に2代当主細川興之が死去すると幼少で嗣子が決まっていなかった事から、次男の興知が家督を継いだものの1万石に減封されています。
延宝6年(1678)に)3代当主細川興知は、後に下屋敷となる子飼(現在の熊本市東子飼町)にお茶屋を設けています。
その後の刑部家は4代興章、5代興行、6代興貞、7代興礼、8代興泰、9代興昌、10代興増と1万石で継承し藩の家老等の要職を歴任し「刑部」か「図書」を名乗っています。
明治4年(1871)に熊本城の城内に鎮西鎮台が置かれる事が定められると、明治6年(1873)に10代当主細川興増は下屋敷だった子飼に本邸を遷し、男爵家に相応しい邸宅に増改築工事が行われました。
旧細川刑部邸は大名屋敷の格式を継承した建物で、身分の高い人物が利用する式台付の玄関の屋根は唐破風屋根とし、その脇には家人や御供が利用する脇玄関が備わっていました。
表御書院の春松閣の銀之間は床の間、天袋付の脇床、書院付の格式の高い造りで、庭園が眺められるように配されています。
別棟には書斎付の茶室「観川亭」、御宝蔵、台所、長屋門等があり大藩の家老屋敷の遺構として貴重な存在です。
|