武家屋敷: 横井小楠旧居(四時軒)

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横井小楠旧居(四時軒) 横井小楠旧居(四時軒)
横井小楠旧居(四時軒):略データ
・場 所・熊本県熊本市東区沼山津1丁目
・建築年・−
・構 造・−
・文化財・熊本市指定文化財
・指定日・昭和43年8月13日
・概 要・横井小楠は文化6年(1809)に熊本藩の藩士(150石)横井時直の次男として生れ、天保8年(1837)に藩校である時習館居寮長(寮長)に抜擢されています。

天保10年(1839)に藩の許可を得て江戸に遊学し、多くの有識者と交流し多くの知見を得たものの、泥酔の上、他藩士とトラブルとなり天保11年(1840)に帰藩命令が出され、帰国後に逼塞処分となっています。

天保14年(1843)に自宅の一室で私塾を開き、多くの門弟を輩出し、その中の三寺三作が福井藩士だった縁で、嘉永5年(1852)には福井藩の求めで「学問問答書」、嘉永6年には「文武一途の説」を著しています。

安政元年(1854)に兄である横井時明が死去した事で家督を継ぎ、横井家の財政を立て直す為に、安政2年(1855)に旧宅のあった相撲町から沼山津に移転しています。

この時建てられた自邸を「四時軒」と名付け、雅号を「沼山」に改めています。

四時軒には坂本龍馬、井上毅、由利公正、元田永孚等所謂「維新志士」や後に明治政府高官となった人物等が訪問し熱い議論が交わされています。

その後、福井藩に招聘され文久2年(1862)までは熊本と福井を往復するような生活が続き、その間の文久元年(1861)には江戸に赴き福井藩主松平春嶽や勝海舟や大久保忠寛と交流を持っています。

さらに文久2年には松平春嶽の招きで福井藩江戸藩邸に招かれ、春嶽と共に幕府への建白書となる「国是七条」の制作に携わり、一橋徳川家邸に招かれると徳川慶喜に「国是七条」の説明と幕政についての意見を述べています。

文久3年(1863)、熊本藩足軽黒瀬一郎助、安田喜助、堤松左衛門の3名が小楠への暗殺を試み、同僚が殺傷されるという事件が発生し、小楠は反撃せず同僚を見捨てて逃亡した罪により士分を取り上げられ沼山津に蟄居させられています。

その間、坂本竜馬や徳富一敬等が訪れ、明治維新後は副総裁となった岩倉具視の推薦等により処分が解除され新政府の立ち上げに尽力しています。

しかし、明治2年、参内の帰途、京都寺町通丸太町下ル東側で暗殺されています。

私塾は早くに肩痛いされ、住居も明治時代の火災により多くが焼失し、当時のものは12帖の座敷と4帖の板間のみとなっていますが貴重な事から熊本市指定文化財に指定されています。

横井小楠旧居(四時軒):付近地図
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