・宮崎家は筑前国三笠郡宮崎村を本貫とする土豪だった家柄で、その後、肥前国佐嘉に移り住むと鍋島家に仕えました。
正徳4年に宮崎正之が分家を起して荒尾村に移住すると熊本藩主細川家に仕え一領一疋の郷士に格付けされました。
9代当主宮崎長兵衛正賢の長男宮崎八郎は熊本藩の藩校である時習館で学び、中江兆民等と親交を深め明治維新後は自由民権運動に傾倒し民権学校「植木学校」を創立しています。明治10年に発生した西南戦争では薩摩軍に参加し討死しています。
弟の宮崎民蔵は農民の平等を主張し土地均分を訴える一方で欧州のアジアへの植民地支配に疑問を覚え、辛亥革命後に中国に渡り革命の援助を行っています。
弟の宮崎彌蔵は中国の清王朝における国民圧迫から開放し、欧米列強と対等に渡り合える新しい中国を理想とする運動家で、名前も「菅仲甫」に改名し見た目も中国人になり切っていた人物とされます。
弟の宮崎寅蔵は中国革命の主導者である黄興と孫文による中国同盟会成立に尽力した人物として知られ、犬養毅の依頼で亡命中の孫文を当家で匿っています。大正2年には中国建国を終えた孫文が再び当家を訪れ、感謝の念を伝えたとされます。
昭和3年に10代目当主となった宮崎民蔵が亡くなると、中国の革命運動に膨大な支援をした事により大きな負債を抱えた事で、土地や家屋も競売に掛けられ一度は人手に渡ったものの、その後、価値が認められ熊本県指定史跡に指定されています。
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