武家屋敷: 去川関所御定番二見家住宅

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去川関所御定番二見家住宅:略データ
・場 所・宮崎市高岡町内山
・建築年・座敷棟:安政2年(1855)、居室棟:明治28年(1895)
・構 造・−
・文化財・宮崎県指定文化財
・指定日・平成30年2月26日
・概 要・二見家は元々、伊勢国の国守佐々木家の家臣で、伊勢二見ヶ浦を本貫とした事から地名に因み「二見」姓を掲げました。二見太郎次郎の7代後裔の二見岩見守久信は永禄年間に織田信長の伊勢侵攻により敗北し、島津家を頼って薩摩の蒲生郷に落ち延びました。

天正年間に島津義久は国境の整備を行い、久信に対し去川番所の定番役を命じた為、当地に移住しました。慶長5年に発生した関ヶ原合戦で敗北した島津義弘が帰陣した際、久信は、名貫川まで迎えの馬を送り自身も六ツ野原まで迎えに行った事で正月の薩摩藩の藩主島津家へのお目見えが許されとされます。

又、一般的な番所は複数の家が交代でその職務担ったものの、去川番所では二見家だけが単独で定番役を担っており、特別視されていた事が窺えます。

旧二見家住宅は、旧薩摩藩領の九州南部に分布する分棟型の建物で、二見家が去川関所御定番を勤めた上級武士だった事から薩摩藩主島津家が高岡筋を利用する際には休憩や休息所として使用され「去川御仮屋」とも呼ばれました。嘉永6年には藩主である島津斉彬、明治4年には勅使だった岩倉具視も当家を利用しています。

分棟型は接客空間として利用された座敷棟(オモテ)と家人が日常生活を営んだ居室棟(ナカエ)の2棟から成っています。構造は木造平屋建て、寄棟、銅板葺き、建築面積272u。座敷棟(オモテ)は格式の高い式台付の玄関があり、その奥には6帖の玄関の間、その奥には8帖の三ノ間、その右側には次ノ間、その奥には奥座敷が配されています。

奥座敷には床の間や天袋付きの脇床が設けられ、壁面が薄い赤色で仕上げられ薩摩藩の武家屋敷の特徴が見られます。

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