・市来家は享保10年に6代当主市来善助が柔術渋川流の師範、天保年間に12代当主市来政徳が剣術真影流の師範になる等、武術家だった家柄で、当門も「道場門」と呼ばれていました。安永8年に編纂された「高岡衆中高帳」によると高岡衆の中で最も高い300石程度の俸禄だった事から当家の格式の高さが窺えます。
市来家長屋門は安政5年(1858)の火災で焼失した後に再建された建物で、よく見かける長屋に門が埋め込まれている形式では無く、門の向かって右側のみに長屋を設け屋根の高さも異なる初期的な形式を採用しています。又、長屋門は観音開門よりも格式の高い家が採用する門の為、市来家が当地では上級武士だった事が判ります。
市来家長屋門は高岡町内唯一の長屋門の遺構で、高岡麓の歴史的景観を構成する重要な要素として貴重な事から宮崎市指定文化財に指定されています。
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