宮崎県の江戸時代には延岡藩、高鍋藩、佐土原藩、飫肥藩が存在していました。又、南部方面は薩摩藩に属し、藩主島津家の有力家臣達が治めた麓と呼ばれる小城下町がありました。日南市飫肥は飫肥藩5万1千石の城下町で、低い石垣と漆喰塀、板塀、生垣の町並みが続き武家屋敷も点在、昭和52年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
宮崎市高岡町は薩摩藩の「麓」の1つで町並みとしては余りありませんが石垣や長屋門が残っています。都城市高城町高城も薩摩藩の「麓」の1つで周辺には石塀や門などが点在する武家町が見られます。都城市高崎町前田も薩摩藩の「麓」の1つでやはり周辺には石塀や門などが点在しています。
【飫肥城:城下町】-飫肥の地は酒谷川舟運の拠点で、南北朝時代に土持氏が飫肥城を築城すると城下町として整備されました。戦国時代に入ると薩摩の島津氏の侵攻を受け、その勢力下に入ると北方の伊東氏の勢力拡大に備え島津一族である新納忠続を配しています。
しかし、伊東義祐は激しく飫肥城を攻め、永禄5年には手中に納めると、子供である伊東祐兵が配されています。元亀3年(1572)、木崎原の戦いで島津義弘が伊東義祐を破った事で島津家の巻き返しが始まり、天正4年(1576)には島津家が飫肥城を奪取したものの、天正15年(1587)には逸早く豊臣秀吉に従った伊東義祐が九州征伐で功績を挙げ飫肥城を与えられています。
飫肥城:城下町周辺の画像・写真

飫肥城下武家屋敷の町並み | 
飫肥城下武家屋敷の町並み |
伊東氏は慶長5年に発生した関ヶ原の戦いでも東軍に与した事で5万7千石(日南市、北郷町、南郷町、宮崎市の南部、清武町、田野町:※後に5万1千石)が安堵され、飫肥藩を立藩、明治維新まで伊東家が藩主を歴任しています。
飫肥城周辺は武家町が町割りされ、現在も苔むした石垣や武家門等が色濃く残され、風情ある町並みが貴重であると評価を受け昭和52年(1977)に重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
又、NHK連続テレビ小説『わかば』のロケ地にもなり観光地としても整備され、多くの観光客が訪れています。
飫肥城:城下町周辺の画像・写真

飫肥城下武家屋敷の町並み | 
飫肥城下武家屋敷の町並み |
飫肥城:城下町周辺の地図(案内図)
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