武田八幡宮(山梨県・韮崎市)概要: 武田八幡宮は平安時代に宇佐八幡宮(大分県宇佐市)と石清水八幡宮(京都府八幡市)の分霊を祭ったのが始まりとされと伝えられています。一方、別当寺院だった法善寺(山梨県南アルプス市)に伝わる寺伝によると弘法大師空海の霊夢に八幡大菩薩が武田郷に出現した事から神意と悟り祠を設けて奉斎したとされ、境内近くには日本武尊の御子とされる武田王の居館や墳墓とされる塚がある事から関係があるとも云われています。中世以降は甲斐守護職である武田家縁の神社として篤く信仰され、特に武田太郎信義は武田八幡宮で元服の式を挙げ領内の八幡神社を篤く庇護したそうです。戦国時代には後裔である武田信玄が嫡子である武田義信と共に天文10年(1542)に大旦那として社殿を造営しています(本殿は国指定重要文化財)。天正10年(1582)に武田家が滅亡すると庇護者を失いますが徳川家の庇護の下で社領の安堵や社殿の造営が行われています。江戸時代に入ると歴代領主から庇護され社領の安堵や社殿の修復が行われます。武田八幡宮随神門は三間一戸、桁行3間、梁間2間、八脚楼門、入母屋、桟瓦葺き、外壁は真壁造り素木板張り、上層部高欄付、下層部随神安置。随神門正面に建立されている石鳥居は天正12年(1584)に補修された銘がある当地方を代表する中世鳥居で、正面石垣と共に山梨県指定文化財に指定されています。
武田八幡宮:動画
武田信義館(山梨県韮崎市):動画
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