福島県只見町叶津と新潟県下田村吉ヶ平を結ぶ峠道で行程は約8里(32キロ)ですが、急峻な峠を幾つも乗り越え80里も歩いた印象を受ける事から八十里越と呼ばれるようになったとされます。会津地方と越後を結ぶ経路の1つとして重要視され会津側の叶津集落には会津藩の叶津番所が設けられています。江戸時代中期以降は叶津集落な名主である長谷部家が関守を兼任して、邸宅が番所の機能を果たしました。現在でも当時の建物が残っており昭和48年(1973)に福島県指定文化財に指定されています。中間に位置する八十里峠(木ノ根峠:標高845m)には木ノ根小屋が設けられ、鞍掛峠(標高965m)などの難所もありました。戊辰戦争の際には北越戦線で敗北した長岡藩兵が会津藩を頼り後退した道でもあり、道中に家老河井継之助が「八十里 腰抜け武士の 越す峠」の句を詠み現在の福島県只見町付近で永い眠りについた事でも知られています。開戦前の長岡藩は新政府軍に対して強行派と恭順派と対立しており、家老と軍事総督を担っていた河井継之助は長岡藩に戦禍を回避する為、双方の中立を主張し、小千谷の慈眼寺(新潟県小千谷市)で新政府軍の岩村精一郎と会談し提案をしましたが、全く相手にされず、やむを得ず奥羽越列藩同盟に参加し戦端が切り開かれました。
長岡藩では河井継之助の支持の元、軍備の近代化を図り当時の最新兵器であるアームストロング砲やガトリング砲などを所持していた事から新政府軍が予想していた以上に頑強な抵抗を受け大きな被害を受けています。新政府軍はどうにか長岡城を占拠するものの、河井継之助の奇策もあり再び長岡兵により奪取されるなど苦戦が続きましたが、長岡城の攻防戦により河井継之助が被弾すると以後、長岡藩兵は精細をかき、新発田藩が新政府軍に転じた事もあり要所である新潟港が落とされます。新潟港が落とされた事で、物資の補給が困難になった会津藩や米沢藩などの同盟側は越後を放棄して自領に引き上げ、戦線を維持できなくなった長岡藩の残存兵も八十里越で会津領に向かいました。
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