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 神社山門: 八重垣神社

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八重垣神社

八重垣神社(島根県松江市佐草町)
【 概 要 】−八重垣神社が何時頃から祀られているのかは判りませんが、当初は佐久佐神社の境内社の1つで信仰も限定的だったと思われます。戦国時代に入ると既に立場が逆転し八重垣神社が主要神社となり、佐久佐神社が小社となり意宇六社に数えられています。明治時代には佐久佐神社の方が郷社、県社となりましたが、その後再び八重垣神社に転じています。社宝である神像壁画(3面)は国指定重要文化財に指定されています。

【 場 所 】−島根県松江市佐草町

【 構 造 】−切妻、銅板葺、三間一戸、八脚単層門

【 備 考 】六所神社と八重垣神社のどちらが出雲国風土記、延喜式神名帳に記載されている佐久佐神社を決めるのかは中々難しいとされます。特に八重垣神社の社号が明確になるのは安土桃山時代の永禄8年(1565)に編纂された毛利元就の判物に「八重垣神社楽田」と記されているが初であり、極端に言えばそれ以前の客観的な資料は現在は見つかっていません(八重垣神社本殿の内壁に描かれた板絵著色神像は室町時代に制作されたと推定される事から少なくともこれ以前に存在していた事は確実視されています)。さらに時代が下がった承応2年(1653)に松江藩の儒学者黒沢石斎が編纂した領内の地誌である「懐橘談」によると佐久佐社は大草村八重垣大明神で近郷に比類なしと評している事から少なくとも江戸時代初期には八重垣神社が佐久佐神社であると認識されていた事が窺えます。一方、天和3年(1633)に編纂された「出雲国風土記鈔」に享保2年(1717)に編纂された「雲陽誌」よると、須佐之男命が大蛇退治の後で宮を設けたのが須我社(現在の須我神社※大原郡海潮郷)で、後に意宇郡佐草村に遷ったのが八重垣社である旨の記載があります。そこから察すると、佐久佐神社と八重垣社(現在の八重垣神社)とは異なる認識を持っていたようです。又、須我神社の元々の祭神は大原郡海潮郷の伝説にある須義禰命とされる為、祭神が須佐之男命に変更になった後に当地に遷されたと思われます。江戸時代後期の天保4年(1833)に編纂された「出雲神社巡拝記」では明確に八重垣大明神と佐草大明神が別々で、佐久佐神社は末社のように小社だった事が記載されています。以上の事から察すると、少なくとも江戸時代以降は佐久佐神社は当地に鎮座していたものの、中世には既に廃れ、その地に大原郡海潮郷に鎮座している須我社から分霊を勧請し八重垣神社が創建されたと認識されていた事が判ります。当然、六所神社側には別の説があります。

島根県の神社山門
須佐神社日御碕神社山辺神社柿本神社住吉神社鷲原八幡宮横田八幡宮神原神社
伊奈西波岐神社宇美神社六所神社美保神社金屋子神社富田八幡宮熊野大社佐太神社
伊賀多気神社城山稲荷神社八重垣神社平濱八幡宮
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