その後の倭国(私論2)

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倭国2

その後の倭国(私論)・概要: 引き続き、想像(私論)のみで何の根拠もありません。奴国により倭国と旧女王国が掌握され、首都が伊都国から奴国領の大宰府付近に遷都、その後、後に日向の国と呼ばれる現在の宮崎県まで版図を広げたと思われます。又、中国との関係を図る必要性から、経路確保の為に、度々朝鮮半島で戦闘が行われています。このページでは、何時頃、九州倭国が大和倭国に滅ぼされたのかを考察します。

前方後円墳は3世紀から発生していますが、4世紀初期から4世紀中期に大幅に増えて大型化している事から、九州倭国は、この頃に形式上、大和倭国に従ったと思われます。古事記や日本書紀には、12代景行天皇は4世紀初期の景行天皇12年に筑紫の豊前国京都郡(福岡県行橋市)に行宮を設けて豊後国の碩田を本拠とする土蜘蛛を、同年には日向国に入り、景行天皇13年には熊襲を平定した事が記載されています。さらに、13代成務天皇が国郡・県邑を定め、14代仲哀天皇は熊襲討伐に対して4世紀中期に豊浦宮(山口県下関市長府宮の内町:忌宮神社)を造営、さらに、筑紫橿日宮(福岡県福岡市東区香椎:香椎宮)を設けて、これにあたっています。又、仲哀天皇の父親とされる日本武尊も前半生では熊襲退治を行っており、これが正しければ4世紀前半の事跡となります。仲哀天皇の皇后である神功皇后も熊襲の国に侵攻し、強敵だった羽白熊鷲や山門県を本拠とする土蜘蛛の田油津姫を討伐しています。景行天皇や成務天皇、仲哀天皇、日本武尊、神功皇后は本当に実在したかは不詳で、年代も明確ではありませんが、前方後円墳の発生を見ても、同時期に大和倭国の勢力が九州北部に浸透した事が窺えます。さらに、4世紀前期頃には九州日向地方に、4世紀中期頃には熊本地方に前方後円墳が見られるようになり九州の大部分が大和倭国の支配下になったと思われます。朝鮮半島の事については、4世紀半ばまでは九州倭国があたり、その後の大規模な軍事行動については大和倭国、小規模なものは、朝鮮半島内の倭人勢力によるものと推察されます(ただし、三国史記の真偽は不詳)。

引き続き、想像(私論)のみで何の根拠もありません。仲哀天皇が九州に侵攻した際、逸早く天皇を出迎えたのが伊都の県主の祖・イトテで、当然、旧伊都国の王族だった人物と推察されます。伊都国系(卑弥呼・壱与)倭国から政権を奪ったのが奴国との推察から、伊都国の王族が復権を願い、仲哀天皇に協力したと思われます(伊都国周辺では3世紀後半から小規模な前方後円墳が見られるようになっています)。その際、イトテが献上したのが「十握剣」です。実は「十握剣」は、「天之尾羽張」又は「伊都之尾羽張」と呼ばれ、国譲り神話の際、建御雷神が大国主を脅す為に用いた剣です。この事から、「壱与」の亡命と吉備国の協力により建国された大和倭国(中国から認められていない国)が、奴国からの「国譲り」によって、正式な倭国(中国から認められていた国)になったという事でないでしょうか?4世紀中頃から出雲国で前方後円墳が出現している事からも、大和倭国に従う事になった奴国の国王が出雲国に宮殿を設ける事を条件に遷されたのかも知れません。そうなると、それに従わなかった旧九州倭国の豪族は土蜘蛛、狗奴国は熊襲と揶揄され討伐の対象になったと思われます。

旧唐書(945年成立)の「日本國者 倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地」の一文は、当サイトでは「日本国(大和倭国の後身)は、倭国(九州倭国)の別種(魏志倭人伝でいう倭種)なり。その国(大和倭国の後身)は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名付けた。あるいは曰く、倭国(九州倭国を併合した後の大和倭国)は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本(大和倭国)は昔、小国だったが倭国(九州倭国)の地を併せたという。」と訳す事が出来ます。旧唐書の前段には滅ぼされた九州倭国についても記載されており「倭國者、古倭奴國也」は「倭国とは、古の倭奴国なり」と訳せ、倭国が伊都国から奴国に政権交代した事が窺える一文となっています(もしかしたら、「金印」同様に倭奴国は委奴国(伊都国)の事を指しているのかも知れません)。中国の歴史書には旧唐書以前は日本の事を「倭」や「倭国」と表現していたものを、これからは「日本」として表現する為にその経緯を示すもので、九州王朝説を論じている人達のように7世紀まで2つの王朝があったという事ではないようです。以前の中国の歴史書は日本に対しては関心が薄かった事から単に魏志倭人伝での記述を繰り返すばかりで、それがあたかも、九州王朝と呼ばれる存在が存続しているように読み手が錯覚しただけのようで、特に三国志時代に戦略上にでっち上げた邪馬台国の名もようやく唐書では消滅しています。もし、邪馬台国が存在していたならば、旧唐書では倭国伝ではなく、邪馬台国伝、又は倭国の前身が邪馬台国であるとの説明が成されるはずです(日本書紀や古事記の情報が中国に伝わり、間接的に邪馬台国と大和朝廷との繋がりが無い事を認識したのかも知れません。新唐書から突然、歴代の天皇や神武東征について言及されている事からも大きな影響を受けたと思われます。さらに、神武東征の神話から、旧唐書とは全く逆の意味となる、倭国が東征した結果日本を併合し、倭国から日本になったと理解したようです)。

比較年表(三国史記の記事は疑問視されています)

西 暦
日本書紀・古事記など
三国史記など
前方後円墳区分
・287年・ ・倭人が新羅に侵攻・3世紀後
・2期
・51m未満:13基
・50〜100m:7基
・100〜150m:1基
・292年・ ・倭人が新羅に侵攻
・294年・ ・倭人が新羅に侵攻
・300年・ ・倭国と国使を交換・4世紀前〜中
・3期
・51m未満:4基
・50〜100m:23基
・100〜150m:3基
・312年・ ・新羅が倭国との婚姻関係拒否
・344年・ ・新羅が倭国との婚姻関係拒否
・345年・ ・倭王と新羅の関係悪化
・346年・ ・倭軍が新羅の金城に侵攻
・355年・仲哀天皇、豊浦宮を造営(古事記)・ 
・361年・仲哀天皇、筑紫橿日宮で熊襲討伐・敗北(古事記)・ 
・362年・仲哀天皇、筑紫橿日宮で崩御
・神功皇后の新羅征伐(古事記)
・ 
・364年・ ・倭兵の大軍が新羅に侵攻
・366年・ ・百済から倭国に使者・4世紀後
・4期
・51m未満:6基
・50〜100m:24基
・100〜150m:2基
・150m以上:1基
・391年・ ・倭国が百済、新羅を属国下(広開土王碑)・4世紀末
・5期
・51m未満:10基
・50〜100m:17基
・100〜150m:7基
・150m以上:1基
・393年・ ・倭軍が侵攻し、籠城戦が展開
・402年・ ・倭国と新羅の国交が再開。未斯欣が人質・5世紀初
・6期
・51m未満:12基
・50〜100m:13基
・100〜150m:3基
・405年・ ・倭兵が新羅に侵攻
・407年・ ・倭人が新羅の東と南から侵攻
・408年・ ・倭人が対馬に増兵
・413年・東晋安帝倭国方物を献ず(晋書倭条)
・安帝の時、倭王賛あり。(梁書諸夷伝倭条)
・未斯欣が新羅に逃げ帰る
・415年・ ・倭人が新羅に敗北
・421年・倭讃、萬里貢を修む。遠誠よろし。甄すべく、除授を賜うべし(宋書倭国伝)・ 
・425年・讃また司馬曹達を遣し表を奉り方物を献ず。(宋書倭国伝)・ 
・430年・倭国王、遣使して方物を献ず(宋書文帝紀)・ 
・431年・ ・倭兵が新羅に侵攻
・436年・讃死して弟珍立つ。遣使貢献す。自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王と称す。表して除正を求む。詔して安東将軍・倭国王に除す。珍、また倭隋等十三人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍号に除正を求む。詔して並びに聴す。(宋書倭国伝)・ 
・440年・ ・倭人が新羅の東と南から侵攻・5世紀中
・7期
・51m未満:10基
・50〜100m:16基
・100〜150m:2基
・443年・倭国王済、遣使奉献す。また以って安東将軍倭国王と為す。(宋書倭国伝)・ 
・444年・ ・倭兵が新羅の金城に侵攻、籠城戦
・451年・使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加え、安東将軍はもとのごとく、ならびに上る所の二十三人を軍郡に除す。(宋書倭国伝)・ 
・459年・ ・倭人が新羅に100艘の船で侵攻
・460年・倭国遣使して方物を献ず。(宋書孝武帝紀)・ 
・462年・済死し、世子興遣使貢献す。詔していわく「・・・宜しく爵号を授くべく、安東将軍・倭国王とすべし 」(宋書倭国伝)・倭人が新羅に侵攻
・463年・ ・倭人が新羅の歃良城に侵攻
・476年・ ・倭人が新羅の東へ侵攻・5世紀後
・8期
・51m未満:20基
・50〜100m:15基
・100〜150m:4基
・477年・倭国遣使方物を献ず。(宋書順帝紀)・倭人の軍が新羅の主要五道から侵攻
・478年・興死して弟武立つ。自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王と称す。(宋書倭国伝)
・遣使上表していわく・・・詔して「武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅 秦韓・慕韓・六国諸軍事安東大将軍倭王とす」(宋書順帝紀)
・ 
・479年・倭王武を鎮東大将軍とす。(南斉書東南夷伝倭国条)・ 
・482年・ ・倭人が新羅に侵攻
・486年・ ・倭人が新羅に侵攻
・497年・ ・倭人が新羅に侵攻
・500年・ ・倭人が新羅の長峯鎮を攻略

九州地方の前方後円墳の数については出田和久:奈良女子大学地理学・地域環境学研究報告, 2010、7号(九州地方における前方後円墳の分布論的検討 ―墳丘の規模と内部 構造・副葬品の時期別分布を中心に―)を参考させていただきました。

日本の年表については「古事記天皇没年干支を中国史書で検証(http://kodai.sakura.ne.jp/nihonnkennkokusi/2-8kennsyou.html)」を参考させていただきました。

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