邪馬台国と不弥国(私論)

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不弥国の存在感

不弥国・概要: 一般的に不弥国の所在地は「宇美説(粕屋)」が有力で、地名の「宇美」が「ウミ」と読み、不弥(フミ)のとの類似性が指摘されています。又、魏志倭人伝によると奴国又は伊都国から東方、百里に不弥国が位置していると記している事から、「宇美町」が奴国の中心的な遺跡とされる須玖岡本遺跡(福岡県春日市岡本)から程近い事も理由の一つとなっています。さらに、町内にある光正寺古墳(前方後円墳)が三世中期から後期頃に築造され、当地域最大規模を誇っている事から不弥国の首長の墳墓という説を唱える人が多いのも確かです。しかし、「宇美町」は須玖岡本遺跡から北東と方角が異なり、邪馬台国と投馬国が存在し、直線式を採用すると不弥国から水行での行程になる為、海岸沿いでなければならず、条件が大きく異なります。その為、穂波郷説、大宰府説、志賀島説、津屋崎説など多数の説が唱えられています。

「東行至不彌國百里官曰多模副曰卑奴毋離有千餘家」

当サイトでは、伊都国からの放射説を支持している為に必然的に不弥国は博多湾周辺に位置していると考えています。放射説を支持する理由はすでに述べていますが、もう一つ、当サイトでは倭国と、女王国は別な存在で、奴国女王国21カ国に含まれ、不弥国は含まれていない為、必然的に倭国を構成している国の1つと考えます。そして女王国の北方に伊都国があると明記されている事から、当然、奴国より北方に不弥国があるのは自然であり、倭国は朝鮮半島や大陸への渡海を独占する事で優位性を獲得したと推定される為、九州北岸は基本的に倭国の版図と考えました。又、下記で述べますが当サイトでは行程の「到」は目的の中核都市までの距離、「至」の字は国境に至る距離と考えている為、奴国の国境と不弥国国境が百里とは余りにも短く、伊都国の都から国境までの距離と考えました。そうなると、不弥国は伊都国から東方にあたり、国境まで百里(魏志倭人伝では10.85キロ)は福岡県福岡市西区下山門付近にあたり、そこを起点として博多湾沿岸と一帯となります。ただし、3世紀末には奴国に併合され地名などは奴国縁のものになったと思われます。

「到」の字は目的地の中心都市に到という意味を持ち、「至」はその途中経過である事から国境まで至を意味しています。それをまとめると、帯方郡→狗邪韓国の都「」水行7千里・狗邪韓国の都→対馬国の国境「至」渡海千里・対馬国の国境→壱岐国の国境「至」渡海千里・壱岐国の国境→末盧国の国境(佐賀県唐津市呼子町)「至」渡海千里・末盧国の国境→伊都国の都(福岡県糸島市有田)「」陸行5百里・伊都国の都→奴国の国境「至」(福岡県福岡市西区吉武)百里・伊都国の都→不弥国の国境(福岡県福岡市西区下山門?)「至」百里・伊都国の都→投馬国の国境「至」水行20日・伊都国の都→邪馬台国の国境「至」水行10日又は陸行1カ月という事になります。

魏志倭人伝で、不弥国までの行程だけが方角の後に「行」の字が加えられています。これは、伊都国から放射状に表現する際、不弥国が同じ倭国を構成している事から、倭国としての国境はさらに向うにある事を意味しているものと思われます。奴国は女王国(≠邪馬台国)の1つである事から倭国の国境であり、邪馬台国と投馬国は当然倭国ではありませんし、当サイトでは存在していないと考えています。

魏志倭人伝で、不弥国と壱岐国では戸数の単位として「家」、概要が記されている他の国々では「戸」が利用されてます。基本的に同じ様な意味とは思いますが、国という意味と、魏志韓伝での「家」と「戸」の使い方によって大凡の推測をする事が出来ます。

魏志韓伝:馬韓−「大国万余家。小国数千家。総一余万戸。」

魏志韓伝:弁・辰韓−「大国四五千家、小国六七百家、総四五万戸。」

上記から「家」の集合体が「戸」である事が容易に推測する事が出来ます。

そして、国という意味を考察すると、魏志倭人伝でも、倭の全体(国土)を表す「国邑」、倭国や女王国といった集合体の「国」、集合体を構成している国々の「国」が容易に読み取る事が出来ます。しかし、集合体を構成している国々より下の単位、「地域」や「区域」もしくは「都市」、「集落」にも「国」という字があてられという可能性はないでしょうか?倭(朝鮮半島南岸から九州地方)は古くは100カ国あったものが30カ国に集約された事から、平均すると、一つの「国」は3〜4つの小国で構成されているはずです。元々の小国の単位の戸数には「家」が使われたとすると、不弥国と壱岐国は古くからの単独国家、その他の国々は複数の小国が習合して国を形成し合計として「戸」の単位が使われたと思われます。例えば、対馬国は5百家の小国2カ国で構成され千戸、末盧国は2千家と1千家、五百家×2の小国で構成され4千戸という感じではないでしょうか?ただし、伊都国だけは、邪馬台国と投馬国の戸数と関わっている為に過少にされているようです(魏略では1万戸)。

不弥国と奴国だけが行程の手段が記されていません。概略が判る他の国々では、渡(渡海)、水行、陸行などと表現されどの様な移動手段を使ったのか想像する事が出来ます。そこから察すると、不弥国と奴国には帯方郡の役人が訪れなかったと推察する事が出来ます。

不弥国の拠点集落は判りませんが金隈遺跡(国指定史跡:福岡県福岡市博多区大字金隈字日焼・甕棺墓348基、土壙墓119基、石棺墓2基など)、比恵遺跡群(国指定史跡:福岡県福岡市博多区博多駅南四丁目・甕棺墓地、墳丘墓、日本最古の絹織物など)、有田遺跡群(福岡市早良区有田・小田部・前漢鏡・小形製鏡など)など博多湾周辺には有力な史跡が点在し、早くから開けていた地域だった事が窺えます。

私論的には不弥国は筑前国糟屋郡安曇郷(福岡市東区和白・福岡県粕屋郡新宮町)、志珂郷(福岡市東区・志賀島)が本拠地とされる安曇氏と強く結びついた関係と推察しています。「不弥」は「フォミ」とも読め、長野県安曇野市に移った安曇氏(阿曇氏)の祖神である穂高見命(穂高神社の祭神)は「フォダカミ」と読め、故郷の地名を取り入れたのかも知れません。

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