【桐生市】−桐生市の中心部は天正18年(1590)に徳川家康の関東移封に伴い代官となった大久保長安が天正19年(1591)に手代である大野八右衛門尊吉に命じて町割された町です。尊吉は久方村に鎮座していた天満宮を現在に遷座し、天満宮を起点として南側に一直線に5間(約9m)幅の道を通し、一番端に浄運寺を配しました。さらに、尊吉は両側を短冊状(間口6〜7間:約12〜14m・奥行40間:約80m)に敷地割をした町を本町から6丁目までを成立させ、久方村峯の地には陣屋を、陣屋との間に横町を設け慶長11年(1606)に概ね完成したとされますが、慶長19年(1614)に大恩あった大久保長安が排斥された事件(大久保長安事件)に連座して処分され鳳仙寺に墓碑が建立されたと伝えられています。桐生の地は古くから絹織物の産地として知られ、正保3年(1646)には天満宮の境内では織物市が立ち、さらに各町で持ち回りとなり遠方からも織物を求めて多くの人が集まりました。特に明治時代以降に最盛期を迎え「西の西陣、東の桐生」と称されるほどに発展し、桐生の町には数多くの織物工場が建てられました。現在でも古い町家や織物工場であるノコギリ屋根の建物が数多く残り、平成24年(2012)に桐生市本町一丁目及び二丁目の全域並びに天神町一丁目の一部、面積13.4ヘクタール(東西約260m、南北約820m)、名称「桐生新町重要伝統的建造物群保存地区」として国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
【白井宿】−白井宿は中世、白井城の城下町として発生した町です。当地は、利根川と吾妻川の合流地という、交通の要衝だった事から軍事的拠点、経済の発展に適し、康元元年(1258)に領主として配された長尾景煕は台地に白井城を築き、南東側の麓には城下町を設けました。室町時代中期に白井長尾家を継いだ長尾景仲は関東管領上杉憲基の片腕として次々と大功を挙げ、山内上杉家の家宰や上野国と武蔵国の守護代などの要職を歴任しました。城下町だった白井宿もそれに伴い繁栄し、室町時代の禅僧である万里九集が白井宿を訪れた時の様子を漢詩文集の東国旅行記「梅花無尽蔵」で「京洛の如し」と評しています。戦国時代に入ると、主家である山内上杉家が衰微した事で白井宿周辺は上杉家、武田家、北条家などの台頭を許し、白井城も度々戦場となり城下町にも被害を受けました。天正18年(1590)時点で白井長尾家は北条家に従っていた為、小田原の役で豊臣軍に責められ白井城は開城となり白井長尾家の支配は終焉しました。同年、徳川家康の関東移封に伴い白井城には重臣の1人本多康重が配され、白井城と城下町の整備を行い、現在に近い町割となっています。慶長5年(1600)に入封した松平康長は白井藩を立藩、その後は短期間で井伊直孝、西尾忠永、本多紀貞と藩主が入れ替わり元和9年(1623)に紀貞が死去すると跡継ぎがなく断絶し白井藩は廃藩となります。白井城も廃城となりますが、元々周辺の経済的な中心地で利根川と吾妻川の舟運の拠点でもあった事から町としての機能は維持され、5日・10日には六斎市が立ち遠方からも多くの人が訪れました。白井宿は新田町・八軒町・上ノ町・中ノ町・下ノ町に分かれ町の中央には8〜9m幅の道が一直線上に配され、さらに道の中央には排水用の水路が設けられていました。明治31年(1898)の火災により多くの町屋が焼失しましたが、現在も良好な町並みが残され観光地として整備されています。
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