【大内宿・宿場町】−大内宿(福島県下郷町)は会津藩の本城である鶴ヶ城の城下町と、日光街道の宿場町である今市宿を結ぶ会津西街道(下野街道)の宿場町として成立した町です。地名の成立としては平安時代末期に平家打倒を全国の源氏一族に発し自らは弾劾された以仁王が当地に逃れた際に京都の大内裏に似ていると語った事を由来としています。現在のような宿場町として整備されたのは会津藩初代藩主保科正之が会津西街道を開削した時で、慶安2年(1649)に幕府に会津領の街道を報告している事から、この年以前には町割りが完了していたと思われます。大内宿は鶴ヶ城の城下町から20数キロ離れていますが、早朝出立すると、丁度昼時に到着した事から、昼食で利用する旅人も多く、会津西街道を参勤交代の経路とした諸大名も同様に昼食を摂っています。しかし、幕府の通達により会津西街道が参勤交代でされなくなると、主に物資の輸送路と旅人の移動が主となりました。明治時代に入り会津三方道路が整備されると、大内宿はその経路から外れた為、急激な近代化が行われず、現在見られる茅葺屋根の古民家が連続して町並みを形成する宿場町の景観が残されました。大内宿の町屋は旅籠と農家建築が合わさった形式を持ち、街道からは少し奥まった所に位置し正面が旅籠、背後が農家建築、敷地背後には土蔵が設けられました。大内宿は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
【鶴ヶ城・城下町】−鶴ヶ城(福島県会津若松市)は中世、南奥羽を席巻した芦名氏の本城と築かれた平山城で当時は黒川城や会津黒川城と呼ばれていました。古くから日本海側と太平洋側、出羽国、上野国を結ぶ街道が交差する交通の要衝で、奥羽の中心的な存在でした。戦国時代の天正18年(1590)に80万石とも云われた芦名氏は伊達家との抗争に敗れ、本家筋の佐竹家を頼り常陸国(現在の茨城県)に落ち延びました。伊達家は最大版図を築き、鶴ヶ城に入ったものの、小田原の役に遅参した事で叱責を受け、旧芦名氏領が認められませんでした。代わって、入封したのが蒲生氏郷で最大版図は91万石に達する大大名となり鶴ヶ城は7重の大天守閣を設ける近代城郭へと変貌し、城下町も拡張されました。江戸時代には徳川御三家に次ぐ保科松平家が会津藩主を歴任し、戊辰戦争(会津戦争)の際には、大激戦の内に降伏し鶴ヶ城の開城に応じています。戊辰戦争で大きな被害を受けた為、江戸時代からの町屋建築は少ないですが、明治時代以降に建てられた土蔵の店蔵を持つ町屋が点在し、近代建築と合わせて独特な町並みが見られます。
【喜多方市・在郷町】−喜多方市の都市的な成立は戦国時代の永禄7年(1564)に芦名盛氏によって小荒井の町割りを行ったのが始まりで、その後、天正10年(1582)に芦名氏の家臣である佐瀬大和により小田付の町割りが行われました。その際、小荒井、小田付の両集落で市が開かれる事になり必然的に周辺地域の経済的な中心地として認識されるようになりました。芦名氏と伊達氏の後に会津領主となった蒲生氏郷も、両集落を保護した為、引き続き物資の集積地(在郷町)として発展しました。又、喜多方市は古くから、土蔵造りの建物を建てるのが盛んで、土蔵を造る事が一人前と認められるという風習があった事から他地域と比べると数多くの土蔵の建物が建てられました。これは喜多方市の中心部に限った事ではなく、小さな集落でも同様な傾向が見られ、左官や大工の技術が向上したのと同時に、新技術となる煉瓦造の蔵も建てられました。現在でも4千棟とも言われる土蔵が残されています。
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