【黒石市・陣屋町】−黒石(青森県黒石市)は、明暦2年(1656)に黒石津軽家初代となる津軽信英が 本藩である弘前藩(青森県弘前市)から5千石を安堵され本格的な町割りが行われました。津軽信英は弘前藩2代藩主津軽信枚の次男で、生母は徳川家康の養女満天姫だった事から青年になると幕府に出仕し小姓組や書院番などを歴任し、幼少だった4代藩主津軽信政の後見人となり、黒石領の基礎を固めました。長く大身交代寄合旗本でしたが文化6年(1809)、8代目津軽親足の時代に加増を受けた事で諸侯に列し黒石藩が成立し、改めて黒石陣屋が設けられ、陣屋町が町割りされました。現在見られる黒石の町並みの原形はこの時に形成されたもので、黒石陣屋の周りには家臣が配され、その外側を商人町としました。黒石は雪深い地域だった事から、冬場の通行を確保する為に、「こみせ」と呼ばれる現在のアーケードが町屋建築の主屋の前に設けられ、隣接する町屋も同様に「こみせ」を設けた為、 隙間なく歩行空間が確保されました。道路側には板戸が嵌め込めるようになっていた事から冬場は常時板戸が締め切られ雪が「こみせ」内部に吹き込まない工夫が見られます。又、「こみせ」はあくまで私有地で、自分の土地を誰でも通行出来るように解放しているという独特な風習により成り立っている事から、明治時代以降殆どの「こみせ」が姿を消しました。そのような中、黒石市中町こみせ通りは、奇跡的に「こみせ」を維持する数多くの町屋建築が健在で良好な町並みが見る事が出来る事から平成17年(2005)に重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
【弘前城・城下町】−弘前城(青森県弘前市)は江戸時代初期に弘前藩の藩主である津軽家 の本城として築かれた平山城です。弘前城とその城下町は、古代からの町割りの伝統を取り入れ、風水や四神相応、易学などに合致するように計画され、さらに防衛的にも3重の堀を構え、天守閣を設けるなど地方の大名として異例な城郭が築かれました。これは、弘前城が本州最北端に位置する軍事的な要衝地として徳川幕府から認識された為で、津軽家も当初は豊臣系大名だったものの、その後は徳川家に近づき安泰を図っています。弘前城の城下町には出羽国の大動脈となる羽州街道と、日本海沿いを縦断する大間越街道を引き入れ、その街道沿いに町屋建築が配されました。弘前は明治以降の火事や近代化により、商人町の町並みが失われましたが大型町屋建築である石場家住宅には雪国特有の「こみせ」が残されるなど当時の雰囲気が感じられます(武家町である弘前市中町は良好な武家屋敷や生垣、門などが残り国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています)。
|