【中山道木曽路】−江戸時代、五街道の1つとして幕府から重要視され、多くの西国大名が参勤交代で利用した中山道は現在でも随所に当時の町並みを残しています。中でも木曽谷に位置する木曽路の区間は大きな開発が無かった為、往時の中山道の宿場町の様子が色濃く残され、木曽平沢(間宿)、奈良井宿、妻籠宿が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
【木曽平沢】−木曽平沢は中山道(木曽路)の間宿で奈良井宿と贄川宿との間に位置しています。特に木曽漆器や、檜物細工の生産地として知られ、木曽平沢の町屋も工場を兼ねた特異な構成になっています。短冊状の敷地割には道路面からアガモチ(空地)→主屋→中庭→塗蔵(漆塗をする作業場:温度と湿度を一定にする為に土蔵造りで、2階を乾燥場として、誇りが入り込まない工夫が見られます)→離れ又は物置の順に配され、隣地の建物との間には一定の距離を取り防火、延焼への工夫が見られます。特に良好な町並みが残されている、長野県塩尻市大字木曽平沢字東町、字東町裏、字西町、字西町裏、字太田、字川原、字上ノ山、字宮ノ原及び字宮下の各一部、面積約12.5ヘクタール(東西約200メートル、南北約850メートル)は平成18年(2006)に名称「塩尻市木曾平沢伝統的建造物群保存地区」として国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
【奈良井宿】−奈良井宿は中山道(木曽路)の宿場町で木曽平沢と藪原宿の間に位置しています。特に中山道の中では難所の1つに数えられた鳥居峠を控えていた事から数多くの旅人や運送業者、商人達が奈良井宿を利用し、「奈良井千軒」と呼ばれる程に繁栄しました。現在でも数多くの町屋が残され、中でも奈良井宿の問屋などの要職を歴任した手塚家の邸宅は規模が大きく旧状を良く留めた町屋建築として知られています。手塚家住宅主屋は天保11年(1840)に建てられたもので、木造2階建て、切妻、鉄板葺、平入、桁行12.4m、梁間10.9m、奈良井宿を代表する町屋建築の遺構として貴重な事から平成19年(2007)に国指定重要文化財に指定され現在は「上問屋史料館」として一般公開されています。奈良井宿は昭和53年(1978)に「伝統的建造物群及びその周囲の環境が地域的特色を顕著に示している」との選定基準を満たしている事から国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
【妻籠宿】−妻籠宿は中山道(木曽路)の宿場町で三留野宿と馬籠宿との間に位置しています。特に、三州街道の飯田城の城下町を繋ぐ大平街道との分岐点だった事から数多くの旅人や運送業者、商人達が妻籠宿を利用し大きく発展しました。現在でも 旧上嵯峨屋住宅(南木曽町指定文化財)や旧下嵯峨屋(南木曽町指定文化財)、旧熊谷家住宅(南木曽町指定文化財)など数多くの町屋建築が軒を連ね良好な町並みを残し、「伝統的建造物群及びその周囲の環境が地域的特色を顕著に示している」との選定基準を満たしている事から昭和51年(1976)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。又、島崎藤村の代表作の1つ「夜明け前」の舞台でもあり妻籠宿の本陣の娘「ぬい」が馬籠宿の本陣に嫁ぎ、藤村が生まれています。本陣は再建されたものですが、脇本陣奥谷は明治時代初期に建てられたもので木曽桧などの銘木を豊富に使用した名建築とされ国指定重要文化財に指定されています。
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