【村田町・在郷町】−村田町は中世、伊達家に従った村田氏の本城である村田城の城下町として成立しました。江戸時代に入ると、伊達政宗の7男伊達宗高が村田領3万石(柴田郡・刈田郡)が与えられ大名並みの格式を持ちました。しかし、寛永3年(1626)に2代将軍徳川秀忠と3代将軍徳川家光に謁見した後に疱瘡を発症し、二条要法寺にて客死しました。遺骨は村田町にある龍島院に埋葬され、家臣10名が殉死しましたが、宗高には嫡男がいなかった為に村田城は廃城となりました。村田町は、奥州街道と羽州街道を結ぶ脇街道があり、仙台城の城下町にも通じていた為、廃城後も引き続き在郷町として発展しました。又、仙台藩の行政区間である「所」に区割りされ、有力家臣である片平氏が1391石で配され、村田所周辺には武家屋敷が設けられるなど小城下町でもありました。江戸時代中期頃になると村田町周辺で紅花栽培が盛んになり、村田は近隣の紅花の集積地とし大きく繁栄するようになりました。村田に集められた紅花は山形を経由し、最上川舟運と日本海の北前船を利用して大坂や京都まで運ばれ、村田には莫大な利益を得る豪商を輩出しました。現在、見られる店蔵(町屋)や土蔵群は、村田商人により建てられたもので、良好な町並みは国の伝統的建造物群保存地区に選定されています。
【仙台城・城下町】−戦国時代の伊達家の本拠地は米沢城(山形県米沢市)でしたが、天正18年(1590)に伊達政宗が南奥羽の大部分の支配していた芦名氏を会津から追い出すと芦名氏の本城である会津黒川城(現在の鶴ヶ城:福島県会津若松市)に入りました。しかし、豊臣秀吉が発令した惣無事令違反の為に旧芦名領は取り上げられた為、再び米沢城に帰還し、さらに、葛西大崎一揆を画策したとの嫌疑を掛けられ岩出山城(宮城県大崎市岩出山町)に移封となりました。慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで伊達政宗は東軍に与し、西軍の中心的な役割を担った上杉景勝を牽制した功により62万石が安堵され、これを機に仙台城の築城が計画され仙台藩が成立しました。仙台城は戦国時代の気風もあり要害堅固の山城として縄張りされましたが、第2代藩主伊達忠宗の時代にはると安定的世情となった為、改めて麓にある2ノ丸を拡張整備し藩政と藩主居館を城下町に近づけました。仙台城の城下町は広瀬川の内外が武家町、大手筋と現在の国分寺通りが交わる芭蕉の辻周辺が当時の商人町の中心でした。仙台藩は多くの家臣を擁し実石100万石とも云われた事から、仙台城の城下町は大消費地として多くの物資が集まり全国有数の都市に発展しました。しかし、明治時代以降の近代化や、太平洋戦争時の大空襲により市街地が大きな被害を受け、多くの町屋建築も姿を消しています。
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