【盛岡城・城下町】−南部家宗家は中世以来、三戸城(青森県三戸市)を本拠としていましたが、天正18年(1590)に行われた豊臣秀吉の奥州仕置きにより、津軽地方を失い改めて陸奥国7郡が認められました。しかし、有力一族だった九戸氏が九戸城(岩手県二戸市)に立て籠もり、領内を2分する内乱となり、南部家だけでは対処出来ず、豊臣家の奥州仕置き軍を要請し、漸く鎮圧しました。南部家は一時九戸城に入りましたが、領内の北方に位置していた事から、新たに盛岡城(岩手県盛岡市)を築城し元和年間(1615〜1624年)頃に三戸や九戸から商人を呼び寄せ、寛永10年(1633)に竣工しています。盛岡城は北上川、中津川、雫石川を天然の外堀とした要害で、川の無い方向には2重の堀が設けられていました。盛岡城の東と北をL字型で奥州街道が通り、街道沿いが商人町が設けられました。商人町の外側には盛岡城の総堀が設けられ、中津川沿いには多くの土蔵が建てられました。現在でも商家町には木津屋、旧中村家住宅、森九商店、旧井弥商店など優良な町屋建築が点在し城下町らしい町並みが一部見る事が出来ます。
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