【関宿・宿場町】−関宿(三重県亀山市)の都市的な発生期限は判りませんが、平安時代には古代の関所である鈴鹿関が設けられていました。一方、奈良時代の高僧である行基菩薩が地蔵院(別称:関の地蔵・関地蔵院。三重四国八十八箇所28番札所)を創建し、信仰が広まると門前町として次第に栄えるようになりました。中世に入ると街道筋も明確となり宿場町的な機能を備えるようになり、天正11年(1583)に領主である関盛信が改めて中町を町割りをして現在の関宿の原形が整えられました。慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで勝利した徳川家康は事実上天下を手中にし、全国の交通網の整備を行い、慶長6年(1601)には東海道が開削され、関宿は江戸日本橋から47番目の宿場町に選定され、本陣や脇本陣、問屋、旅籠などが設置されました。関宿は東追分からは伊勢別街道、西追分からは大和街道が分岐する交通の要衝として、多くの旅人や物資の流通に利用され、特に西国大名が参勤交代の際には宿泊や休息に利用され大いに賑わいました。江戸時代中期以降は庶民の行楽思考の向上によりお伊勢参りが飛躍的に流行り、東海道や大和街道を利用した参拝者は関宿から伊勢別街道に入り伊勢神宮を目指しました。関宿は国道一号線が街道筋から外れた為、大規模な近代化が行われず、奇跡的に数多くの町屋建築が残され(東海道の宿場町の多くは災害や近代化、道路の拡幅などで多くの町屋建築が失われています)、現在でも良好な町並み景観が見られる事から国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
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