安養寺(長野県・佐久市)概要: 安養寺は鎌倉時代末期に、後深草上皇の勅願で心地覚心によって開山した事が始まりとされます。心地覚心は信濃国筑摩郡神林郷(現在の長野県松本市)に地頭の常澄兼久の子供で、奈良東大寺や高野山伝法院、金剛三昧院で修行を重ね、中国に渡り径山寺でさらなる修行を行い帰国後に西方寺(後の興国寺)の開山しています。心地覚心が中国で学んだ味噌造を、当寺で再現し信州に広げた事から、信州味噌発祥の地といわれ、特に境内で造られた味噌は安養寺味噌として広く知られました。南北朝時代に正眼智鑑禅師によって現在地に境内を移し堂宇が整備されています。当地の地頭で長く領主として君臨していた大井氏の菩提寺として庇護され、後に鎌倉公方5代となった足利成氏(永寿王丸)を匿った功により寺領3千5百石が寄進され最盛期には末寺231寺を擁する大寺院に発展しました。戦国時代には武田家から庇護されて武田信玄(躑躅ヶ崎館の城主)からは寺領526石や版本大般若経(長野県:県宝)などが寄進され堂宇の営繕工事が行われました。山門は三間三戸、入母屋、鉄板葺、八脚楼門、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、上層部には丸窓、高欄付。佐久平三十三番観音第6番札所。
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