名 称 | 内 容 | 場 所 |
・運松寺 | ○運松寺は長く当地を支配した小笠原家縁の寺院で小笠原貞宗の代に禅宗寺院として開かれています。戦国時代に小笠原家が武蔵児玉郡本庄(現在の埼玉県本庄市)に移封になると荒廃しましたが、江戸時代に入って法誉伝策和尚により再興され浄土宗の寺院に改宗しています。山門は享保20年(1735)に造営されたもので、一間一戸、切妻、桟瓦葺き、薬医門形式、上層部が鐘撞堂である鐘楼門、棟梁は飯田出身の名工坂巻新兵衛吉英、飯田市指定文化財に指定されています。
○運松寺の楼門写真はこちら | ・長野県 ・飯田市 |
・鶏足院 | ○鶏足院の山門は一間一戸、入母屋、茅葺、四脚鐘楼門。 | ・長野県 ・飯田市 |
・大通寺 | ○大通寺は江戸時代初頭に関ヶ原の戦いで、徳川秀忠軍の中山道進軍の案内役として功のあった山村良候が木曽代官に就任、跡を継いだ山村良勝が開基となり柱山和尚を招いて創建された寺院です。山門は安永7年(1778)に造営されたもので、三間一戸、入母屋、銅板葺、四脚鐘楼門、木曽町指定文化財に指定されています。武田信玄の娘で木曽義昌に嫁いだ真理姫が木曽家滅亡後の木曽に戻り、没した事から木曽家の家臣だった山村家縁の大通寺に供養塔が建立されています。
○大通寺の楼門写真はこちら | ・長野県 ・木曽町 |
・光岳寺 | ○光岳寺は徳川家康の生母である於大の方縁の寺院で、江戸時代初期に於大の方が死没すると位牌が安置され、寺号も於大の方の戒名に因んでいます。於大の方の再婚先である松平家から庇護され、寛永元年に松平憲良が小諸藩(長野県小諸市:本城−小諸城)に移封になると小諸城の城下町である現在地に遷されています。正保4年に松平家が改易になると、新たに小諸藩主となった牧野家から庇護され、明治時代に牧野家の菩提寺である泰安寺が廃寺になると、光岳寺に牧野家の位牌などが遷されます。山門は享保元年に造営されたもので、三間三戸、入母屋、桟瓦葺き、八脚楼門。総門は小諸城の足柄門を移築したもので貴重なものです。
○光岳寺の楼門写真はこちら | ・長野県 ・小諸市 |
・信定寺 | ○信定寺は天文22年に武田晴信(後の武田信玄)が当地に侵攻した事で、和田城が落城、城主だった大井信定が壮絶な最後となり、その菩提を弔う為に創建された寺院です。当地は中山道の和田宿に位置していた事から江戸時代に入ると参勤交代で中山道を利用する諸大名や公家などから信仰されています。山門は一間一戸、入母屋、桟瓦葺き、四脚2重鐘楼門(旧梵鐘は元禄3年に鋳造されたものでしたが太平洋戦争で供出しています)。寺宝が多く木造釈迦如来坐像、木造三宝荒神立像、山水六曲屏風、陣鐘、恵林禅人臨川の偶が長和町指定文化財に指定されています。
○信定寺の楼門写真はこちら | ・長野県 ・長和町 |