光岳寺: 楼門

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光岳寺(長野県・小諸市)

光岳寺(長野県・小諸市)概要: 光岳寺は徳川家康の生母である於大の方縁の寺院で、江戸時代初期の慶長7年(1602)にに於大の方が死没すると位牌が安置され、寺号も於大の方の戒名「傳通院殿蓉譽光岳智香大弾定尼」に因んでいます。於大の方の再婚先である松平家から庇護され、寛永元年(1624)に松平憲良が小諸藩(長野県小諸市:本城−小諸城)に移封になると小諸城の城下町である現在地に遷されています。正保4年(1647)に松平家が改易になると、新たに小諸藩主となった牧野家から庇護され、「浄土宗佐久郡触頭」の寺格が与えられ寺運が隆盛しています。明治時代に牧野家の菩提寺である泰安寺が廃寺になると、光岳寺に牧野家の位牌などが遷されています。本堂にはその他に於大の方や松平憲良の位牌、本尊である木造阿弥陀三尊像、木造十一面観音像、木造阿弥陀如来立像、千体仏などが安置されています。光岳寺山門は享保元年(1716)に造営されたもので、三間三戸、入母屋、桟瓦葺き、八脚楼門、外壁は真壁造り板張り、上層部花頭窓、高欄付、内部に釈迦如来像、文殊菩薩像、十六羅漢像安置、「光岳寺」の扁額が掲げられています。総門は小諸城の城門の一つ足柄門を移築した貴重な建物です。

光岳寺が境内を構える位置は北国街道が東西から南北に折れる角に当たる事から、小諸城の城下町の中でも特に重要視されていた場所で、北国街道の街道筋の外側には光岳寺を起点として宗心寺、海応院(慶長5年:1600年の関ケ原の戦いの一つ、第2次上田合戦では、当時の住職が真田家との和睦に尽力したとされます)、全宗寺、佛光寺(群馬県太田市の大光院を創建した呑龍上人が隠遁した際に設けた草庵を前身とした寺院です)、長勝寺が略一直線に配され寺町が形成されています。寺院の境内は広い為に兵を配しやすく、墓石を利用して石塁を築きやすい事から寺院を城下町の一面に直線的に配し、防衛線とする例は多く、小諸城でも同様な考えだったと思われます。小諸城は3方を川で囲まれている為、川が無く開けていた東側に光岳寺をはじめとする寺院群を一列に配し防衛施設と一端と考えていたようです。さらに、光岳寺の北側には小諸城の鬼門鎮護として成就寺、北東の押えとして実大寺、尊立寺、應興寺が配されています。又、北国街道の街道筋の内側は武家町で小諸藩の藩士が居住していました。

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