信定寺: 楼門

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信定寺(長野県・長和町)

信定寺(長野県・長和町)概要: 信定寺は天文22年(1553)に武田晴信(後の武田信玄※躑躅ヶ崎館の城主)が当地に侵攻した事で、和田城が落城、城主だった大井信定が壮絶な最後を迎え、その菩提を弔う為に創建された寺院です。当地は中山道の宿場町である和田宿に位置していた事から江戸時代に入ると参勤交代で中山道を利用する諸大名や日光東照宮(栃木県日光市)に奉幣を奉納する日光例幣使、京都二条殿などから信仰されています。江戸時代末期には名僧と知られた活文禅師が約10年間住職を務めた事でも知られています。活文禅師は松本藩(本城:松本城)士の森条七の次男で、幼少時に信定寺に入り修行を重ね、青年期には江戸や長崎に遊学して見分を広め、文化4年(1805)に信定寺の住職に就任しました。活文禅師は私塾である「多聞庵(長野県上田市:常田毘沙門堂)」を開いた際、幕末の志士である佐久間象山や赤松小三郎、山寺常山、文化人である高井鴻山、竹内八十吉などを育て近代日本に影響を与えた人物とされています。信定寺山門は一間一戸、入母屋、桟瓦葺き(下屋庇:桟瓦葺き)、四脚2重鐘楼門、上層部外壁は柱のみの吹き放し(旧梵鐘は元禄3年に鋳造されたものでしたが太平洋戦争で供出しています)。

信定寺が境内を構える和田宿は和田城の城下町として成立したと思われますが、江戸時代に入り中山道が幕府により開削されると、宿駅に指定され、本陣や脇本陣、問屋、旅籠などの施設が設けられました。隣の下諏訪宿までは難所である和田峠を越え、距離が長かった事から、和田宿で宿泊や休息する人が多く宿場も発展しました。和田宿の本陣は大井信定の娘婿に当たる長井家が宿場の実力者として就任し問屋や名主を兼任するなど引き続き指導者として当地を治めました。文久元年(1861)には皇女和宮が将軍家降嫁の際、中山道を下向し和田宿の本陣に宿泊が決定したものの、数か月前に火災により宿場全域が焼失しました。和田宿では幕府から拝借金を得て、再建に取り掛かり無事に再興を果たし宿泊の役目を果たしました。現在、その当時の建物が数多く残され、国指定史跡に指定されています。

※ 当サイト「全国楼門建築」は資料や案内板、パンフレットなどを参考にして編纂していますが、個人的な意見も含まれている為、最終確認は自らの責任により最終確認してください。又、写真や文章のコピーは遠慮してください。

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