慈雲寺: 楼門

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慈雲寺(長野県・甲州街道:下諏訪宿)

慈雲寺(長野県・下諏訪町)概要: 慈雲寺は鎌倉時代末期に一山一寧によって創建された寺院です。一山一寧は台州臨海県(中国浙江省台州市臨海市)出身の高僧として知られ、正安元年(1299)に日本に渡来し、当初は元からの密偵として疑われ、修禅寺(静岡県伊豆市)に幽閉されましたが、その後許されて神奈川県鎌倉市山ノ内に境内を構える建長寺や円覚寺、浄智寺の住職を経て、慈雲寺の創建に携わっています。慈雲寺は信州国(長野県)に境内を構える臨済宗寺院の中の筆頭の格式を得て寺運が隆盛しています。天文年間(1532〜1554年)に武田家と諏訪家の争乱の兵火により焼失しましたが、武田信玄(躑躅ヶ崎館の城主)により再建され天桂和尚から教えを請うたとされ、寺紋として武田菱が掲げられています。天正18年(1590)に高島城の城主として赴任した日根野高吉の菩提寺で、境内には供養塔が建立されています(日根野高吉は豊臣家の家臣で慶長6年:1600年に死没)。現在の慈雲寺山門(入母屋、銅板葺、三間一戸、八脚鐘楼門・下諏訪町指定文化財)は安永5年(1776)に紀州藩士福田儀左衛門が当地で死去し、境内に葬られた際、一族が寄進したもので、安永6年(1777)に村田長左衛門矩重によって建立されています。

慈雲寺が境内を構える下諏訪町は、江戸時代に中山道と甲州街道が分岐する宿場町である下諏訪宿として整備された町です。元々は信濃国一宮である諏訪大社下社秋宮と諏訪大社下社春宮の門前町でしたが、門前町からは源泉が湧き出ていた為、湯治場(温泉街)としても利用されていました。江戸時代に入り五街道に数えられる中山道と甲州街道が分岐する交通の要衝として大きく発展し江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠40軒と中山道信濃路の宿場町の中では最大級の規模を誇りました。これは、隣の宿場町である和田宿(長野県長和町)との間には難所と知られる和田峠があり、距離が長かった事から、参勤交代で利用する大名はじめ、旅人や商人も下諏訪宿で宿泊した事に起因しています。一方、甲州街道は江戸城が攻略された際の徳川将軍家の退路として想定された為、甲州街道を参勤交代で利用する藩は、飯田藩、高遠藩、高島藩の3藩に限定され、街道筋には数多くの関所が配されていました。慈雲寺は中山道沿いの諏訪大社下社春宮を見下ろす高台に位置している事から当時は街道を利用する多くの参拝者を受け入れたと思われます。

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