その後の倭国(私論)

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倭国

その後の倭国(私論)・概要: ここからは、想像(私論)のみで何の根拠もありません。まず、卑弥呼の塚について、これは、畿内説、九州説両方共に言えるのですが、卑弥呼の跡を継いだ男王は国中が不服で争いが起き千人余りが殺されています。又、国中が不服という事は、卑弥呼が行ってきた政策とは異なる政治が行われている事から、政敵だった可能性もあります。そのような中で、男王は卑弥呼の為に態々巨大な古墳を築造したり、貴重な生口を100余名殉葬するとは考え難いと思われます。卑弥呼の墓と思われる平原遺跡1号墓は小規模ですが、男王の代わりに擁立された壱与が墳墓全体を祭場として整備し、高さ20m、太さ70cmの柱を立てたのもその一環かと思われます。

伊都国では弥生時代後期に築造され卑弥呼の墓と思われる平原遺跡1号墓以降は目立った遺跡が無く、卑弥呼が死去した以降は衰退傾向にあったと思われます。特に西晋から派遣された張政が泰始2年(266)に帰国し、中国の国内で内乱が頻発すると、正常な外交は行われなくなったと思われ、卑弥呼の跡を継いだ壱与の墳墓と思われる遺跡も発見に至っていません。

畿内の方を見てみると、3世紀の後半から祭祀の祭具として利用されたと思われる銅鐸が短期間の内で姿を消している事から、素直に解釈すれば、異文化の持つ外敵から制圧されたと考える方が自然です。さらに、同時期から大型の前方後円墳が見られるようになり、明らかに畿内における時代の転換点になったようです。又、日本神話において、天孫降臨の時に、瓊瓊杵尊が天照大神から授けられ、日本の歴代天皇が継承した三種の神器(八咫鏡・八尺瓊勾玉・草薙剣)になぞられる、銅鏡、勾玉、鉄剣が、北部九州の古墳からまとめて発見される例があり、天皇家と北部九州と関係が深いとも考えられます。

これらの事から、邪馬台国九州説を押す人達は、邪馬台国が東征して大和政権の基になる政権を樹立、又は畿内に遷都したという説を採る人達が数多くいます。しかも「記紀」での神武東征神話はこの実績を表現しているという説を唱える人もいます。しかし、例え邪馬台国なる国が本当に存在し、九州北部を制圧していたにせよ、地方勢力の1つには変わらなく、山陽、畿内に割拠していたと思われる、中小の豪族達を連破し、大国となった吉備や大和を撃破したとは、現実的には不可能と思われます。中国側の資料が無い事から東征は泰始2年(266)以降、さらに、3世紀末に銅鐸が消え、畿内に大型前方後円墳が発生する以前に完遂する必要性があり時間的な余裕もありません。そもそも、九州説を成り立たせる場合は陸行を1日5キロ程度と低く見積もる必要があり、それが正しければ、未知の土地に大軍を移動させるには莫大な時間と労力が費やされます。しかも、補給路の確保や、占領地の治安維持、反乱の警戒など多くの兵員が見込まれ短期間でとても出来る事ではありません。唯一可能性があるのは中国からの援軍ですが、内乱が頻発しその余裕も無く記録にも残されてませんし、当然、倭国が東征したとも考えられません。又、古墳の規模から見ると、当時の九州北部は四国、吉備などから比べると後進国であり、邪馬台国が東征した後に大型前方後円墳が発生するとは考えにく事象です。

遷都説にしても、中国大陸や朝鮮半島に近い事で先進性を確保してきた国が、態々その優位な地を捨てて未知の地に都を遷すには利点より不安要素の方が大きく選択肢としてはあり得ません。例え選択したとしても、数千人規模を移住させ都を計画する事は不可能に近く、当然、地元の豪族の抵抗が予想され常に危険に囲まれる事になります。唯一考えられる事が、邪馬台国が東海地方方面まで版図があった場合ですが、上記のように九州の一勢力が短期間で成せる業ではありません。

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