邪馬台国を論じる(戸数・人口編)

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邪馬台国

ここからは何の根拠もありませんが、何故、架空の邪馬台国と投馬国が必要だったのかを想像で論じます。まず、魏志倭人伝は単なる地誌として書かれた訳では無く「魏」の勢力を誇示し、敵対する「呉」に対して軍事的な脅威を与える事が大きな目的です。確かに「倭国」は対馬海峡を制する無視できない存在だったとは思いますが、「呉」に対して軍事的な脅威には全くなりません。その為、「倭国」、「邪馬台国」、「投馬国」を海上から「呉」を取り囲む事によって精神的な圧力を与えようとしたのではないでしょうか?

邪馬台国の7万戸は35万人(1戸5人として計算していますが、現実的にはそれ以上になる可能性があります。)という、現在では地方の県庁所在地の同等の人口規模で、奈良時代の平城京の人口が概ね5〜10万人、平安京上限20万人から比べると、いかに現実離れしているか容易に判ります。江戸時代で概ね35万人規模でいうと、岡山藩と同程度で、約30万石前後の石高を有していました。単純には計算出来ませんが、古代と呼ばれる飛鳥時代から平安時代にかけても水田の本格的な利用(常畑では無く、土地を休ませながら利用)や開発は不十分であった事から、35万人(魏志倭人伝で記載されている数カ国だけで75万人以上)の人口を養える生産量が安定的に供給されていたとは到底考えられません。

どの様な計算方法かは判りませんが弥生時代後期(西暦200年前後)の日本全体の人口が50〜70万人との試算もあり、魏志倭人伝の戸数自体がいかに異常なものかが窺えます(関東・中部・近畿・九州がそれぞれ10万人程度、東海・中国は6万人程度という試算もあります)。因みに弥生時代最大規模とも言われる佐賀県の吉野ケ里遺跡でも千人(最盛期でも1千5百人)程度とされる為、もし邪馬台国が存在したならば、ある一定区域の中に吉野ヶ里遺跡規模の集落が300カ所以上存在する必要性があり、九州説や畿内説に限らずこのような地域が今後発見されるとは到底考えられません(あるのなら当然既に発見されているはず)。

実際に邪馬台国が都あると仮定すると、奈良時代の人口約550万人に対して平城京10万人である事から比率が約2パーセント、周辺の人口を含めたとしても精々5パーセント、とすると弥生時代の首都国の人口は大きく見積もっても70万人の5パーセントとして3万5千人、7千戸程度という事になり、偶然かも知れませんが魏志倭人伝とは10倍の開きがあり、大凡や約などのレベルでは無く、弥生時代には都市への人口集中が少ない事が推定される為に実際にはさらに少なかったと思います。日本の全人口が50万人と仮定すると邪馬台国は2万5千人、さらに、平城京の人口が5万人として計算すると1万2千5百人程度、これでも弥生時代には十分発展していた国と思われます。当然、奴国の2万戸、10万人もかなり盛っています。

弥生時代の推定人口(全国)

wikipedia参照
年 号
McEvedy & Jones (1978年)鬼頭宏(1996年)Biraben(1993,2005年)
西暦200年700,000人594,900人500,000人

各時代の人口と主要都市人口との比率

wikipedia参照(各説の平均値 ※単純に平均を出しただけなので、あくまで目安としてください)
時 代
全国人口(各説の平均)
首都人口(各説の平均)
比 率
弥生時代
200年
598,300人邪馬台国:350,000人
邪馬台国を国としても異常な数字。1戸当りを6〜7人に想定するとさらに数字が上がります。
58.5%
古墳時代
400〜
500年
1,666,667人
飛鳥時代4,307,500人藤原京:38,333人0.9%
奈良時代5,402,629人平城京:101,857人1.9%
平安時代5,882,405人平安京:126,143人2.1%
鎌倉時代7,041,250人鎌倉:191,667人2.7%
室町時代11,598,605人京都:170,000人(末期:30万人)1.5%
江戸時代
1750年
30,335,150人江戸:1,220,000人4.0%

吉野ケ里遺跡(国特別史跡:佐賀県神埼郡吉野ヶ里町・神埼市)から推測すると中核部分が1千〜1千5百人、衛星集落を合わせても精々3千〜5千人程度が1つの国を形成し、それが倭には30カ国前後あると仮定すると、合計すると10〜15万人前後が妥当という事になります。壱岐(一支)国の中核部である原の辻遺跡(国特別史跡:長崎県壱岐市芦辺町)は東西約350m、南北約750m、約24ヘクタール、邪馬台国の候補地の1つ平塚川添遺跡(国指定史跡:福岡県朝倉市平塚)は約17ヘクタール、竪穴式住居跡約300軒、掘立柱建物跡約100軒、方保田東原遺跡(国指定史跡:熊本県山鹿市方保田)は東西1200m、南北350m、約35ヘクタール、竪穴式住居跡100軒超、土器や鉄器の製作工房跡、3つの遺跡が吉野ヶ里遺跡(約40ヘクタール)と前後する規模である事からも、当時の1つの国の規模を推察する事が出来ます。

小山修三元国立民族学博物館教授の研究によると、西暦200年前後の九州地方の人口は10万5千1百人、近畿地方は10万8千3百人、それが概ね正しいと仮定すると倭の30カ国は九州地方に収まり、畿内説では西日本全域となる為に無理が生じ、邪馬台国と投馬国の人口を加えると九州説、畿内説、両方共に成立しない事が判ります。弥生時代末期には九州、近畿共に人口の増加が予想されますが、それでも邪馬台国1国で35万人、投馬国1国で25万人はあり得ない数字である事からも邪馬台国と投馬国の家屋崇は捏造された可能性もあります。魏志倭人伝、邪馬台国を信じている人達は弥生時代の人口を300〜400万人と見立てているようですが・・・逆にそう見立てなければ成立しないという事です。

人口についても、「呉」の首都である建業(秣陵)がある丹陽郡が60万人前後ですから、邪馬台国の人口35万人と投馬国の人口25万人を足すと丁度60万人となり、作為的に決められた事が想像出来ます。又、同じく魏国の冊封国で「倭」の反対側に位置する大月氏国(クシャーナ王朝)が10万戸、魏志倭人伝で記載されている「倭」の合計が15万戸と丁度1.5倍となり、こちらも作為的に決められた事が想像出来ます。女王国の北でなければ概略が判らないはずが遠く南に位置しているのに邪馬台国と投馬国、両国の概略を明らかにしているのもこれらの数字に合わせたのが原因という事になります。

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