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 神社山門: 波波伎神社

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波波伎神社

波波伎神社(鳥取県倉吉市福庭)
【 概 要 】−波波伎神社が何時頃から祀られていたのは判りませんが、伯耆国の国府に程近くに鎮座し伯耆国の総氏神として崇敬された神社です。格式も高く貞観9年に正五位上に格付けされ、平安時代中期に成立した延喜式神名帳に式内社として記載されていました。明治時代以降、伯耆二の宮を称するようになり、昭和に入り県社に列しています。境内には鳥取県指定史跡に指定されている福庭古墳が築造されているなど古墳時代から聖地だった場所で、神域として保護されていた事で巨木、古木が多く国指定天然記念物に指定されています。

【 場 所 】−鳥取県倉吉市福庭

【 構 造 】−切妻、桟瓦葺き、三間一戸、八脚単層門

【 備 考 】−波波伎神社は伯耆国造とも関係が深く9世紀まで伯耆国一宮と目される神社です。10世紀以降どのような経緯だったのかは判りませんが、一宮の座は倭文神社 (鳥取県東伯郡湯梨浜町宮内)、二宮の座は大神山神社(鳥取県西伯郡大山町大山)に譲った形となり、10世紀に成立した延喜式神名帳に名を連ねたもののその後は全く目立たない存在となっています。資料的価値が疑問視されている先代旧事本紀によると、波伯国造は「成務朝の御世に、牟邪志国造と同祖・兄多毛比命の子の大八木足尼を国造に定められた。」とあります。当然、この大八木足尼が伯耆国造だった明確な確証はありませんが、伯耆国には豪族の氏寺だったと思われる廃寺が数多く点在する事から伯耆国造に匹敵する豪族が割拠し、9世紀から10世紀頃に倭文神社を氏神とする豪族が台頭して伯耆国を掌握したとも考えられます。

波波伎神社がどの程度衰退したのかは判りませんが、江戸時代の元禄年間(1688〜1704)には現在の大原神社(鳥取県倉吉市大原)が波波伎神社を号していたようで、このような事態に陥る程に存在感が無かったと思われます。一方、大原神社の隣地には大原廃寺塔跡(国指定史跡)があり、山陰地方最大級の塔心礎が見つかるなど大きな勢力の存在が推察され伯耆国一宮に相応しい環境が整っています。江戸時代中期に当社が波波伎神社である事の決定的な証拠があり、それに基づき、当社が再興され、大原の社は五社明神という事になったと思われますが、何か腑に落ちない気がします。大原神社の案内板には宝永4年(1707)に社殿を再興した際に記されたという「再興記」があり、それには「この五社大明神は延喜式神名帳3132神中 伯河村郡波波伎神社也」と記載されて旨を紹介しています。因みに大原廃寺の方も平安時代末期には廃絶したようで、波波伎神社の衰退にも関係があるのかも知れません。

鳥取県の神社山門
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