当信寺(宮城県・白石市)概要: 当信寺は安土桃山時代に良益上人によって創建された寺院です。創建当初は蒲生氏の領地でしたが慶長3年(1598)に上杉景勝領となり、関ケ原の戦い後に仙台藩伊達領に組み込まれました。慶長7年(1602)に伊達家重臣の片倉景綱(小十郎)が白石城の城主になると本格的に城下町が整備され、当信寺は慶長9年(1604)に現在地に境内を移しました。慶長20年(1615)の大坂夏の陣の際、豊臣方の名将として知られた真田幸村が将来の身を案じ、子供である阿梅、阿菖蒲、おかね、大八を、敵将で大坂に布陣していた片倉重長(仙台藩主伊達家家臣、白石城の城主)に預け、その内、阿梅は重長の後妻となっています。阿梅は両親の菩提寺となる月心院を創建した他、位牌を当信寺に安置し、元和元年(1681)に死去すると縁のあった当信寺が菩提寺に定められ、戒名「泰陽院殿松源壽清大姉」から院号を「泰陽院」に改めています。その後、当信寺は片倉家縁の寺院として庇護され領内四ヶ寺に数えられています。山門は白石城の大手門の2の門(櫓門)を移築したもので三間一戸、切妻、桟瓦葺、八脚楼門。境内には阿梅と同じく真田幸村の子供とされる大八の墓碑が建立され、特に阿梅の墓碑は虫歯に御利益があるとされます。
当信寺:動画
白石城:動画
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