上宮寺(長野県・佐久市)概要: 上宮寺(佐久市)が何時頃に発生したのは判りませんが、口伝によると推古天皇(第33代天皇:西暦593〜西暦628年)の御代に上宮太子こと聖徳太子により創建されたと伝えられています。一方、現在、新海三社神社の境内に建立されている三重塔の初見が嘉祥2年(849)とされている事から、この前後に創建されたとも考えられます。当初の寺号は「新海山上宮本願院神宮密寺」で、文字通り新海三社神社の神宮寺、別当寺院として祭祀を司っていました。新海三社神社は佐久三庄三十六郷の総社として古くから為政者や領主から一目置かれていた事から祭祀を司った神宮寺も大きな影響力があったと思われます。ただし、平安時代に全国の格式の高い神社を列記した延喜式神名帳には新海三社神社と思われる神が記載されておらず(式内社である英多神社とする説もあります)、室町時代以前の古文書なども散逸している事から多くは伝説、伝承の域が出ません。
歴史的に明確になってくるのは室町時代に入ってからで、延文年間(1356〜1360年)に編纂された資料によると当時は「新開神」と呼ばれてようで「新開=にいさく」の「さく」が佐久の地名の由来になったとも云われています。中世、長く当地を支配したと思われる田口氏も明確になるのは室町時代からで新海三社神社の背後の高台には居城である田口城が築かれている事から、新海三社神社は氏神、別当寺院だった神宮寺は氏寺や菩提寺のような役割を果たしていたと思われます。
三重塔の風鐸の銘には永正12年(1515)の年号と共に田口長慶はじめ複数の田口姓が刻まれ当時の田口家の繁栄が窺え、天文12年(1543)には最後の当主となった田口長能によって梵鐘が奉納されています(この梵鐘は暦応元年:1338年に現在の群馬県前橋市に境内を構える東覚寺の為に鋳造されたようですが、何故か長能の手に渡り新海三社神社神宮寺に奉納されています)。戦国時代、武田信玄(躑躅ヶ崎館の城主)の佐久侵攻により田口氏は没落し、その後は武田家、徳川家、大給家(龍岡藩の藩主・本城:龍岡城五稜郭)が庇護を続けてきましたが、明治時代に行われた神仏分離令とその後に吹き荒れた廃仏毀釈運動により、神宮寺は寺号を「上宮寺」に改め一部の堂宇と金剛力士像(長野県・県宝)、梵鐘(長野県・県宝)などと共に現在地に遷されています。しかし、新海三社神社の三重塔(宝蔵)と、現在の上宮寺に残る堂宇以外の多くの建物は破却され、仏像や、寺宝、古文書なども失われています。鐘楼門の建築年代は不詳ですが入母屋、鉄板葺、一間一戸、上層、下層共に構造体のみの吹き放し、上層部には梵鐘が釣り下げられ、高欄が廻っています。
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