青森県: 城郭建築

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 青森県:城郭建築一覧
市町村 城名 名称 現在 概要 備考
弘前市 弘前城 天守閣 同左 文化7年:3層3階、入母屋、本瓦葺 国重文
弘前市 弘前城 丑寅櫓 同左 慶長16年:3層3階、入母屋、銅板葺 国重文
弘前市 弘前城 羊申櫓 同左 慶長16年:3層3階、入母屋、銅板葺 国重文
弘前市 弘前城 辰巳櫓 同左 慶長16年:3層3階、入母屋、銅板葺 国重文
弘前市 弘前城 追手門 同左 慶長16年:櫓門、入母屋、本瓦葺 国重文
弘前市 弘前城 北門(亀甲門) 同左 伝:大光寺城の大手門を移築 国重文
弘前市 弘前城 東門 同左 慶長16年:櫓門、入母屋、本瓦葺 国重文
弘前市 弘前城 東内門 同左 慶長16年:櫓門、入母屋、本瓦葺 国重文
弘前市 弘前城 南内門 同左 慶長16年:櫓門、入母屋、本瓦葺 国重文
弘前市 弘前城 与力番所 同左 江戸中期:木造2階、入母屋、銅板葺
弘前市 大浦城 城門 法源寺 伝:大浦城の移築城門
弘前市 大浦城 御殿台所 長勝寺庫裏 伝:大浦城の台所を移築、再利用 国重文
八戸市 八戸城 角御殿表門 南部会館 移築城門:寛政9年:大棟門、切妻、銅板 県重宝
八戸市 八戸城 東門 根城公園 移築城門 市指定
七戸町 七戸城 城門 青岩寺 移築城門:移築後間口切り詰め 市指定
三戸町 三戸城 搦手門 法泉寺 移築城門 町指定
三戸町 三戸城 表門 龍川寺 移築城門 町指定
 弘前城−城郭建築概要
弘前城:天守閣弘前城は司馬遼太郎が「日本七名城」と言わしめた名城で北ノ最果ての地で5万石(後に高直しにより10万石)に満たない外様大名にしては異例とも言える広大な城が築かれました。津軽家は元々、南部家の一族である久慈家から養子として入った大浦為信が元亀2年(1571)に突如として南部家の一族である石川高信が守る石川城に侵攻し反旗を翻した事に始まります。その際、為信は石川家の重臣3人を人質に取り、さらに城下に残された女、子供に残虐の限りを尽くし、城内の動揺を誘ったところで一気に攻め落とし、城主高信は自刃に追い込まれています。天正6年(1578)に浪岡城に侵攻した際も、為信配下の無頼者や無法者を城下に放ち、散々な悪行の限りを尽くした後に動揺を誘い浪岡城を落城させ、南部家の客将だった北畠顕村を自刃させています。この様な戦術が功を奏してか天正13年(1585)の油川城に侵攻した際は城主が一戦もせず南部領に引き上げた為、為信は津軽3郡を略掌握しています(このような経緯から津軽家と南部家の確執が生まれとされています)。外交戦略も長け、天正17年(1589)には南部家より早く、家臣を豊臣家の下に送り込み名馬や鷹を献上し所領4万5千石のうち3万石(1万5千石を太閤蔵入地)が安堵され念願の独立した大名として地位が確立しています。さらに天正18年(1590)の小田原の陣では自ら家臣を率いて参陣し4万5千石が安堵され、公家である近衛家に近づき形式的とはいえ豊臣秀吉と義兄弟となっています。その後、豊臣家重臣の石田三成の娘で高台院の養女である辰姫を三男信枚の正室にし、嫡男信建は豊臣秀頼の小姓衆として篤い信頼を勝ち取っています。慶長5年(1600)の関が原の戦いでは為信と信枚は東軍、信建は西軍として行動し、結果4万7千石をもって弘前藩が立藩しています。ただし、西軍に与した信建は健在で、さらに関が原から石田三成の次男石田重成を連れ帰り、上記のように信枚の正室は三成の娘で、秀吉と高台院の養女である事から親豊臣派と呼ばれてもよい状況下にありました。慶長12年(1607)信建と為信が病死すると跡を継いだ信枚は幕府で絶対的な権威のあった天海大僧正に師事し、弘前城:城門津軽家の宗派を曹洞宗から天台宗に改宗し、弘前藩の江戸藩邸も上野寛永寺の隣地に移しています。慶長13年(1608)には信建の嫡男熊千代を擁立する御家騒動を早々に収め不穏分子を一掃し親徳川派として転進を図り、その行動を背景にして慶長14年(1609)から本格的な弘前城の築城が行われています(為信時代から弘前城の計画がありましたが頓挫していました)。天海大僧正の後ろ盾を得て弘前城は5万石程度の外様大名では有り得ない6つ郭から成る総面積385200uの広大な縄張りが行われ、本丸には5層5階の天守郭が設けられました。津軽家はその後も親徳川派工作が続けられ、慶長18年(1613)には徳川家康の養女である満天姫を正室に迎え(辰姫は側室に降格)、元和2年(1616)に徳川家康が死去し日光東照宮が造営されると逸早く東照大権現の分霊が勧請され弘前東照宮が城下に造営され津軽家の安泰を図っています。日本100名城
 八戸城−城郭建築概要
八戸城八戸城は八戸藩の藩庁と藩主居館が設けられた城で当地域の中心となった城郭です。八戸領は中世以来、南部家一族の領地で江戸時代に入り盛岡藩が立藩すると一応盛岡藩領内に組み込まれていましたが、当地を治めていた一族である根城南部家は宗家である三戸南部家とは一定の距離があり半独立領主として認められていました。寛永4年(1627)にようやく根城南部家を遠野(岩手県遠野市)に移封させる事で三戸南部家の支配が確立し、当地方を治める為に根城南部家色を一掃する為に本拠地だった根城を廃城にし、一居館だった中舘を改築、拡張を行い盛岡藩の代官所が設けられました。寛文4年(1664)盛岡藩2代藩主南部重直が死去すると、子供がいなかった事から本藩10万石の内、弟の七戸重信(南部利直の5男、七戸城の城主)が本藩8万石分、中里数馬(南部利直の7男)が八戸領2万石を継ぎ新たに八戸藩を立藩させる事が幕府の裁定により定められました。形式的には盛岡藩と八戸藩は同等に扱われ所謂支藩でないとされ、この御家騒動含みの分裂劇は中里数馬改め南部直房と跡を継いだ嫡男南部直政の両者が反対派による暗殺で死去したという説が流れる程でした。八戸城は盛岡藩の代官所の施設を利用拡張した程度のもので本丸と二ノ丸の2郭で構成され天守閣などの高層な建物は設けられませんでした。
 七戸城−城郭建築概要
七戸城七戸城は古くから七戸南部家の居城として随時整備拡張された平山城で、天正19年(1591)の九戸政実の乱で七戸南部氏が加担した事で乱が終結すると三戸南部家が接収し支配下に起かれました。宿敵となった津軽家を押える軍事的拠点として江戸時代に入っても城郭が維持されてきましたが、一国一城令が発令されると施設は破却され改めて代官所が設けられています。元禄7年(1694)に盛岡藩5代藩主南部行信は弟である南部主税政信に5千石を与え、江戸幕府旗本寄合席の別家が成立、文政2年(1819)に南部信鄰の代に6千石が加増され盛岡新田藩1万1千石が立藩しています。ただし、蔵米での支給だった為、領地を持たず定府大名という格付でした。安政5年(1858)に南部信誉が城主格に列し、文久3年(1863)に南部信民が七戸代官所の貸与を受け陣屋として整備しました。戊辰戦争後、1千石が減じられ明治2年(1869)に南部信方に改めて1万石が与えられ七戸藩が立藩し、七戸陣屋も七戸城として整備されました。
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