仙台城の築城年は不詳ですが鎌倉時代には既に存在し島津陸奥守の居城だったとされます。島津陸奥守が対馬(長崎県対馬市)に移封になると結城氏の一族が当地に入封、 当時は仙台城の周辺には5箇寺(大満寺・長泉寺・龍泉寺・光禅寺・玄光庵)があり、その中で中心寺院だった大満寺の境内に虚空蔵堂があった事から「虚空蔵城」などと呼ばれていました。文治5年(1189)、奥州合戦の戦功により当地の地頭になった千葉胤通は地名(国分荘)から国分氏を名乗るようになり、結城氏が移封になった後に虚空蔵城(仙台城)に入ると歴代城主を歴任し長く当地を支配しました。国分能登守の時代に城の麓に千躰仏を安置した事から「千躰城」に改称し後に縁起の良い「千代城」に改められています。
戦国時代に入ると伊達家の侵攻により天正5年(1577)には伊達盛重(伊達政宗の叔父)が国分家の名跡を継ぎ従属するようになります。慶長5年(1600)の関が原の戦いで伊達政宗は東軍に与した功により刈田郡が加増され、それに伴い今まで居城である岩出山城(宮城県大崎市)が領内でも北部に位置し手狭になった事から千代城に移る許可を得ました。
慶長6年(1601)から築城が開始され慶長7年(1602)のは本丸が完成、慶長8年(1603)に一応の完成を見て本城が移され名称も仙台城に改められています。
仙台城は青葉山の山頂付近に築かれた山城で本丸も標高100m以上の高所にあり4方を崖地で囲われていた事から防衛的には非常に優れていたものの、行政や居住として大変不便であった事から2代仙台藩主伊達忠宗は寛永16年(1639)に青葉山の麓の城下町に近い場所に二の丸を造成し、この地で政務を行うようになっています。
仙台城の城下町は大藩に相応しく壮大なもので、文化的に高く伊達家の墓域である瑞鳳殿など戦災で多くが失われたものの、大崎八幡宮(国宝:拝殿・本殿・石の間)や仙台東照宮(国指定重要文化財:本殿・随神門など)などの名建築が残されています。
戊辰戦争の際は仙台藩は奥羽越列藩同盟に参画した為に新政府軍と戦い敗北、仙台城は廃城になったものの新政府の東北鎮台が設置され城郭としては維持されましたが、本丸の施設は明治4年から明治5年(1872)頃に破却され、東北鎮台が置かれた二の丸も明治15年(1882)の火災により多くの建物は焼失、僅かに残った大手門と脇櫓、巽門、表舞台楽屋などの建物も昭和20年(1945)の仙台空襲に被災しその姿を消しています。
仙台城の遺構としては寅門は宮城県の知事公館の表門、板蔵が民家に移築されて現存しています。日本100名城。
仙台城:動画
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