乙宝寺: 楼門

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乙宝寺(新潟県・胎内市)

乙宝寺(新潟県・胎内市)概要: 乙宝寺は奈良時代に名僧として知られた行基菩薩と婆羅門僧正により創建されたと伝わる古寺です。平安時代に入ると、領主である城氏が領内三ヶ寺として乙宝寺新潟県胎内市)、法音寺新発田市)、華報寺阿賀野市)の三ヶ寺を特に庇護した事から大きく繁栄しました。伝承によると平安時代末期の安元2年(1176)に当時の越後守の城助永の伯父宮禅師が霊夢で御告げを受け、それに従い朽ちた寺院の宝塔の下を掘り下げたところ仏舎利を発見し、乙宝寺を再興し篤く帰依するようになった知多得られています。城氏は平維茂の子供である平繁茂を祖とする氏族で、繁茂の子供が城太郎と呼ばれ、その後裔が城太郎に因み城氏を名乗るようになったとされます。養和元年(1182)に木曽源氏の棟梁である木曽義仲(源義仲・源頼朝の従兄弟)を押さえる為、平家一門である城資永が越後守に就任し義仲を牽制しました。資永の跡を継いだ城長茂が横田河原の戦いで木曽義仲に敗れましたが、その後は源頼朝に従い大功を挙げた為、御家人となりました。しかし建仁元年(1201)に反乱を起こし、幕府から討伐軍を派遣され鎮圧されています。城氏が滅んだ後は当地の領主となった黒川氏や中条氏、戦国時代には越後守護職の上杉家(春日山城の城主)などの庇護により乙宝寺の境内が維持されました。黒川氏は乙宝寺から仏舎利を預かっていましたが応永31年(1424)に伊達の軍勢が越後に侵攻し黒川基実の居館が落城、乙宝寺仏舎利は略奪され、中条房資が買い戻し乙宝寺に改めて寄進しています。江戸時代に入ると村上藩(新潟県村上市:本城−村上城)の藩主村上氏が乙宝寺を篤く帰依した事から三重搭(国指定重要文化財)が寄進され、乙宝寺境内には村上氏の五輪塔が建立されています。昭和12年(1937)の火災により多くの仏像、寺宝が焼失しましたが、現在でも三重塔をはじめ、茅葺屋根の弁天堂や、鎮守社だった八所神社(延喜式神名帳に記載されている式内社である市川神社の論社)宮殿など多数の文化財を所有し古刹の雰囲気が感じられます。乙宝寺仁王門は江戸時代中期の延享2年(1745)に造営された建築で、再建の際には鎌倉時代に造営された金堂の古材が再利用、三間一戸、入母屋、正面軒唐破風、銅板葺、八脚楼門、外壁は真壁造り木部朱塗り、上層部には花頭窓、高欄付、「如意山」の山号額、内部には行基菩薩が彫刻したと伝えられている仁王像が安置されています。越後三十三観音霊場第26番札所。越後八十八カ所霊場第38番札所。

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