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千葉県:城郭建築一覧 |
市町村 |
城名 |
名称 |
現在 |
概要 |
備考 |
野田市 |
関宿城 |
御殿 |
実相寺 |
客殿:木造平屋、入母屋 |
− |
野田市 |
関宿城 |
埋門 |
民家 |
表門:切妻、桟瓦葺 |
町指定 |
大多喜町 |
大多喜城 |
二の丸御殿門 |
大多喜高校 |
薬医門、切妻、銅板葺 |
− |
山武市 |
松尾城 |
御殿表門 |
民家 |
長屋門、入母屋、桟瓦葺 |
− |
匝瑳市 |
松尾城 |
御殿 |
民家 |
詳細不詳 |
− |
成田市 |
助崎城 |
東門 |
円通寺 |
切妻、鉄板葺、薬医門 |
− |
佐倉市 |
佐倉城 |
藩校門 |
民家 |
長屋門、寄棟、桟瓦葺 |
− |
佐倉市 |
佐倉城 |
城門? |
城内 |
切妻、本瓦葺、薬医門 |
− |
君津市 |
古久留里城 |
城門 |
真勝寺 |
山門、切妻、桟瓦葺、薬医門 |
− |
柏市 |
藤心陣屋 |
表門 |
観音寺 |
山門、切妻、銅板葺、一間一戸 |
− |
柏市 |
藤心陣屋 |
中門 |
法林寺 |
切妻、桟瓦葺、薬医門 |
− |
いすみ市 |
伊南陣屋 |
陣屋門 |
民家 |
長屋門、寄棟、桟瓦葺 |
− |
横芝光町 |
木戸陣屋 |
表門 |
民家 |
切妻、桟瓦葺 |
− |
横芝光町 |
木戸陣屋 |
裏門 |
民家 |
長屋門、入母屋、桟瓦葺 |
− |
佐原市 |
大倉城 |
城門 |
民家 |
切妻、桟瓦葺、一間一戸 |
− |
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関宿城の築城年には諸説ありますが、桓武平氏の後裔とされる簗田満助が応永年間(1394〜1428年)、又は簗田成助が長禄元年(1457)に築いたとされます。長期に渡り簗田氏の居城でしたが、当地は下総国(千葉県)と常陸国(茨城県)の国境付近に位置し利根川や江戸川の水運を治める上での戦略的な要地だった為度々争奪戦が繰り広げられ(越後上杉家、古河公方足利家、関東管領上杉家、佐竹氏、小田原北条氏などが争いに関係した)、戦国時代の天正2年(1574)には小田原北条氏の侵攻により落城し当時の城主簗田晴助は水海城に退いています。北条氏は関宿城を拠点に北部関東にも大きな影響力を行使し有利に展開する事になり、関宿城には北条方に与し晴助の異母弟とされる簗田助縄が城主として配されていましたが、天正18年(1590)の小田原の役で小田原北条氏が滅ぶと、関宿城も北条方の城郭として接収されます。同年、徳川家康の関東移封に伴い関宿城は徳川家の一族である松平康元が配され、以後、久松松平家が居城として整備拡張し、関ヶ原の戦い後は徳川政権の下で関宿藩が立藩し関宿城には藩庁が置かれました。久松松平家の後は能見松平氏、小笠原氏、北条氏、牧野氏、板倉氏、久世氏、牧野氏、久世氏が城主を歴任して明治維新を迎えています。明治4年(1871)に関宿藩が廃藩になると廃城となり、本丸新御殿の一部が藩主久世氏の菩提寺である実相寺の客殿、大手門は飲食店、埋門は民家の門、城門の1つが逆井城(茨城県坂東市)にそれぞれ移築現存しています。
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大多喜城は大永元年(1521)、真里谷信清により築城されのが始まりとされます。当初は小田喜城と称していましたが、天正18年(1590)、徳川家康の関東移封に伴い当地には重臣である本多忠勝が10万石で配され、小田喜城を元にして大多喜城を築きました。忠勝は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでも大功を挙げ、桑名藩(三重県桑名市)に10万石で移封、当地の5万石分は2男の忠朝が継いで大多喜藩を立藩します。忠朝は大坂の陣で討死した為、甥の政朝が継ぎ、元和3年(1617)に政朝が龍野藩(兵庫県たつの市)に移封になると、阿部正次が入封。元和5年(1619)に正次が小田原藩(神奈川県小田原市)に移封になると、大多喜藩は廃藩になりました。元和9年(1623)に青山忠俊が入封すると再び大多喜藩が立藩しましたが寛永2年(1625)に改易となり廃藩、その際、大多喜城は放置されたままだった事から荒廃し寛文11年(1671)に阿部正春が入封した時には建物はおろか堀までも失われていたそうです。阿部氏は1万石程度の小大名だった為、それまでの大多喜城の規模を縮小したとされます。その後は稲垣家、松平(大河内)家が城主を歴任し、明治4年(1871)の廃藩置県により大多喜藩が廃藩に伴い大多喜城も廃城となっています。二の丸御殿薬医門が唯一の遺構で現在は大多喜高校の校庭内で保存され千葉県指定史跡に指定されています。
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