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愛知県:城郭建築一覧 |
市町村 |
城名 |
名称 |
現在 |
概要 |
備考 |
名古屋市 |
名古屋城 |
大手二之門 |
同左 |
慶長17年:高麗門 |
国重文 |
名古屋市 |
名古屋城 |
表二之門 |
同左 |
慶長17年:高麗門 |
国重文 |
名古屋市 |
名古屋城 |
東二之門 |
同左 |
慶長17年:高麗門 |
国重文 |
名古屋市 |
名古屋城 |
東南隅櫓 |
同左 |
慶長17年:2層3階 |
国重文 |
名古屋市 |
名古屋城 |
西南隅櫓 |
同左 |
慶長17年:2層3階 |
国重文 |
名古屋市 |
名古屋城 |
西北隅櫓 |
同左 |
元和5年:3層3階 |
国重文 |
犬山市 |
犬山城 |
天守閣 |
同左 |
天文6年:3層4階 |
国宝 |
犬山市 |
犬山城 |
松の丸裏門 |
常満寺 |
切妻、桟瓦葺、一間一戸 |
− |
犬山市 |
犬山城 |
屏風櫓 |
旧奥村邸 |
伝:道具蔵は犬山城櫓移築 |
国登録 |
犬山市 |
犬山城 |
内田御門 |
瑞泉寺 |
伝:金山城(岐阜県可児市)の大手門 |
− |
犬山市 |
金山城 |
裏門 |
瑞泉寺 |
伝:金山城(岐阜県可児市)の二の門 |
− |
刈谷市 |
重原陣屋 |
陣屋門 |
願行寺 |
切妻、桟瓦葺 |
市指定 |
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名古屋城は戦国時代に今川氏親が現在の二之丸周辺に設けた柳ノ丸が始まりとされます。天文元年(1532)に織田信秀(織田信長の父親)の策略により柳ノ丸は乗っ取られ当時の館主今川氏豊は京に逃れています。信秀は城郭として整備拡張して那古野城に城名を改称、ここを居城として勢力を広めました。天文8年(1539)、信秀は古渡城に移り、さらに天文17年(1548)に末森城に居城を移した為、那古野城には嫡男である織田信長を配して領地経営を推進しています。織田家の家督を継いだ信長は弘治元年(1555)に清須城(愛知県清須市)に居城を移した事に伴い那古野城は廃城になったと思われます。慶長14年(1609)、徳川家康の命により名古屋城の築城が決定、縄張りを牧野助右衛門、普請奉行を滝川忠征、佐久間政実など5名、作事奉行を大久保長安、小堀政一など9名、大工頭を中井正清とし実際の工事には加藤清正、福島正則、池田輝政、浅野幸長、加藤嘉明、黒田長政など西国大名を中心とする20家が負担しました。名古屋城が完成すると清須城の城下町から社寺や有力商人が集められ「清洲越し」と呼ばれる程に大規模な移動となり、以後、尾張徳川家の居城として機能しました。戊辰戦争の際、尾張徳川家は逸早く新政府軍に恭順し、名古屋城の城郭としての価値も高く評価されていた事から、明治維新後に発令された廃城令以後も姫路城と名古屋城の2城の保存が決定しています。戦前までは大天守や小天守、本丸御殿など多くの建物が現存していましたが、城内には日本軍の第三師団が配置されていた事などから太平洋戦争では攻撃対象となり昭和20年(1945)の名古屋大空襲により多くが焼失しました。現在は南西隅櫓、東南隅櫓、西北隅櫓、大手二之門、表二ノ門、東二之門が残り国指定重要文化財に指定されています。日本100名城。
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犬山城は文明元年(1469)、織田伊勢守家当主の織田敏広の弟である織田広近が当地に砦を設けたのが始まりとされます。天文6年(1537)、織田信康(織田信長の叔父)が城郭として拡張整備し、現在の犬山城天守郭の2層まではこの時建てられた2層櫓を改修したものと推定されています。天文13年(1544)、信康は美濃稲葉山城(現在の岐阜城)攻めに参陣して討死すると織田信清が城主になりますが、信清は織田信長と対立し、永禄7年(1564)には信長によって落城の憂いにあっています。その後は信長の重臣である池田恒興や織田勝長などが城主を務め、天正10年(1582)の本能寺の変で信長が倒れると尾張・伊賀・南伊勢の領主となった織田信雄の家臣川定成が犬山城の城主として配されました。天正12年(1584)、池田恒興が突如として犬山城に攻撃を加えあえなく落城、これにより織田信雄と支援する徳川家康、織田家滅亡を画策する羽柴秀吉の関係が修復不可能となり小牧・長久手の戦いが勃発しています。戦いは膠着状態となり両者が和睦し再び犬山城は信雄方に戻りますが、天正18年(1590)の小田原の役後の配置換えを不服とした信雄は改易となり秀吉の家臣石川貞清が犬山城に入り近代的な城郭として大改修して現在に近い姿になっています。慶長5年(1600)の関が原の戦いで貞清は西軍に与し没落、江戸時代に入ると犬山領は尾張藩領に組み込まれ慶長6年(1601)には小笠原吉次、慶長12年(1607)には平岩親吉が城主となり、元和3年(1617)に成瀬正成が城主になると以後、成瀬家が9代に渡り城主を歴任しています。現存する天守郭は望楼型、三層四階地下二階、複合式で戦国時代に建てられた古い型式の天守で意匠にも優れている事から国宝に指定されています。その他の遺構としては内田御門が瑞泉寺の山門として移築されています。日本100名城。
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