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北海道:城郭建築一覧 |
市町村 |
城名 |
名称 |
現在 |
概要 |
備考 |
松前町 |
松前城 |
本丸御門 |
同左 |
嘉永2年建築:櫓門・切妻・銅板葺 |
国重文 |
松前町 |
松前城 |
御殿玄関 |
同左 |
寛永16年建築:伝京都伏見城移築 |
道指定 |
松前町 |
松前城 |
寺町御門 |
阿吽寺 |
移築城門 |
− |
松前町 |
松前寺社 町奉行所 |
不明門 |
法華寺 |
山門、切妻、桟瓦葺、一間一戸 |
− |
函館市 |
五稜郭 |
兵糧庫 |
同左 |
館要塞砲兵大隊の兵舎などで利用された |
− |
函館市 |
五稜郭 |
板庫 |
同左 |
一端解体、部材が保存され近年復元された |
− |
函館市 |
五稜郭 |
土蔵 |
同左 |
一端解体、部材が保存され近年復元された |
− |
江刺町 |
檜山奉行所 |
表門 |
法華寺 |
山門、北海道最古級の建物 |
町指定 |
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北海道は明治時代以前は蝦夷地と称し、南西部は松前氏によって形式上は管理されていました。領地といっても幕府の体制の根幹である米を生産出来る田圃が無く、アイヌ人との交流によって得た蝦夷地の特産物を本土に輸出する事で利益を得ていました。その為、江戸時代当初は蝦夷地が外国扱いで、松前氏が正式の徳川政権に組み込まれたのは5代将軍徳川綱吉代の頃で交代寄合旗本に列し、享保4年(1719)に1万石格を得て諸侯に列しました。松前氏の館は慶長5年(1600)から慶長11年(1606)にかけて築城されたもので、松前氏の圧制から度々アイヌ人が反乱を起した事もあり大規模で堅固な館が築かれました。しかし、形式的には松前氏は1万石格だった為、陣屋扱いとなっています。江戸時代末期になると蝦夷地沿岸に度々外国船が出現し早急に北辺警備が必要となり、嘉永2年(1849)に幕府の命により松前藩は大規模な城郭を計画し、市川一学(高崎藩士、長沼流兵学者)の縄張により安政元年(1854)に竣工、日本最後の和式本格的城郭と言われています。戊辰戦争の際には戦場となり、一時、函館五稜郭を本拠とした旧幕府軍の侵攻により落城しています。その後廃城となり、明治8年(1875)には天守閣、表門、御殿、塀などを残し破棄され、天守閣と塀は昭和24年(1949)の火災により焼失し、御殿も松城小学校の校舎として利用されたものの明治33年(1900)に新しい校舎が建設されると玄関部を残して解体されました。現在は表門が国指定重要文化財、御殿の表玄関が北海道指定文化財に指定され阿吽寺の山門として移築されていた寺町御門が残されています。
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江戸時代後期になると日本沿岸に度々外国船が出没するようになり、安政元年(1854)に日米和親条約が締結すると箱館港が開港され、一気に重要視されるようになりました。当時は松前藩領で藩の役所が設けられていましたが、極めて重要な土地になった為、幕府の直領とし松前藩の役所を箱館奉行所に改修して主要施設としました。奉行所の場所は海岸に近く、箱館山から見下ろせる位置にあった為、防衛の面ではかなり脆弱だった為、新たに五稜郭の築城が計画されました。安政5年(1857)から築造が開始され元治元年(1864)に概ね竣工し、慶応2年(1866)に完成しています。慶応4年(1868)に江戸幕府が瓦解すると、五稜郭は箱館府の政庁として利用されますが、同年に榎本武揚等旧幕府軍が侵攻すると、政府軍は敗退し当時の函館府知事である清水谷は青森に退き五稜郭は旧幕府軍により接収されます。五稜郭は大鳥圭介の指示の下、実践用に改修し明治2年(1869)に完成、同年には新政府軍が箱館に侵攻し所謂「箱館戦争」が行われました。宮古湾海戦で旧幕府軍が敗退すると、新政府軍が次々と箱館周辺に上陸、防御の要だった弁天台場と千代ヶ岱陣屋が落とされ、五稜郭へ総攻撃開始が通知されると降伏に応じ開城しています。明治4年(1871)に多くの施設が解体され、明治6年(1873)に兵部省の所管となっています。
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江刺の地は古くから要衝として知られ、松前藩では松前城の他、函館と江刺に奉行所を設けて当地方の行政、軍事の拠点としました。番所が設けられたのは延宝6年(1678)で、特に産出される檜材が藩の財政に大きく寄与した事から重要視され檜山番所が上ノ国から江差に移転してきました。江戸時代末期になると蝦夷地(北海道)の沖合いに度々外国船が出没するようになり、蝦夷地の拠点の1つとして文化4年(1807)から文政4年(1821)の間、幕府が直接支配し、江差奉行所が置かれ陣屋構えとして改修されました。戊辰戦争の際は戦略的拠点の1つとして旧幕府軍が接収、援軍として江刺湊に入港しようとした開陽丸が途中で座礁し、その姿を見た榎本武揚と土方歳三はかなり落胆したそうで、歳三が悔しさのあまり拳を叩き付けた松が「土方歳三嘆きの松」として残されています。明治維新以降も「檜山爾志郡役所」として引き続け利用され明治20年(1887)には洋風建築として建替えられています(旧檜山爾志郡役所として北海道指定有形文化財)。奉行所時代の唯一の遺構として延宝6年(1678)当時のものと思われる旧表門が明治15年(1882)に法華寺の山門として移築され、北海道最古の木造建築物として貴重な事から昭和46年(1971)に江差町指定の有形文化財に指定されています。
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