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島根県:城郭建築一覧 |
市町村 |
城名 |
名称 |
現在 |
概要 |
備考 |
松江市 |
松江城 |
天守閣 |
同左 |
慶長11年:4層5階地下1階 |
国宝 |
津和野町 |
津和野城 |
馬場先櫓 |
同左 |
江戸末:2層2階、入母屋、桟瓦葺 |
県史跡 |
津和野町 |
津和野城 |
物見櫓 |
同左 |
江戸末:1層2階、入母屋、桟瓦葺 |
県史跡 |
浜田市 |
津和野城 |
藩庁門 |
浜田城 |
江戸末:切妻、桟瓦葺、一間一戸 |
県史跡 |
益田市 |
七尾城 |
大手門 |
医光寺 |
江戸初期:高麗門、本瓦葺 |
県指定 |
大田市 |
山吹城 |
城門 |
西本寺 |
伝:移築城門、切妻、桟瓦葺 |
市指定 |
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松江城は慶長16年(1611)、堀尾忠氏、吉晴(忠氏の父)の2代により亀田山に築城した輪郭連郭複合式平山城です。城は山頂に設けらた本丸を中心に一段下に二の丸、北側には外曲輪、北側に北の丸、南側に三の丸が配され、宍道湖から湖水を引き込み内堀とし、宍道湖と大橋川を天然の外堀に見立ていました。本丸には4層5階の天守閣が設けられ全体では6基の櫓が立てられました。明治時代初期に松江城は廃城となり天守閣以外の建物は破却又は払い下げとなっています。寛永10年(1633)に堀尾家が断絶になると、寛永11年(1634)に京極忠高が入封、忠高は松江城を改修し、特に三の丸部分を拡張し、これをもって松江城の全域が完成したとも言えます。寛永14年(1637)に京極家が断絶すると(後に再興)、寛永15年(1638)に松平直政が入封し、以後、松平家が10代松江藩主を歴任し明治維新を迎えています。現存している松江城天守閣は山陰地方唯一の天守閣で国宝に指定され、宍道湖を利用した名城である事から日本三大湖城(松江城・高島城・膳所城)の1つとされます。日本100名城。
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津和野城は標高367mの霊亀山の山頂付近に建てられた山城で正中元年(1324)、吉見頼行、頼正の2代で完成したとされます。吉見氏は14代に渡り津和野城の城主を歴任して随時整備拡張が繰り返されました。戦国時代に入ると吉見氏は大内氏に従属し親族関係を結ぶ事で重臣となり、主家大内家に対して下克上により中部地方の支配権を掌握した陶隆房にも抵抗し続けました。天文23年(1554)には陶晴賢と大内義長(晴賢に擁立された大内家の当主)が吉見正頼が立て籠もる三本松城(津和野城)に侵攻し所謂「三本松城の戦い」が起こり、12度にわたる総攻撃にも耐え続けました。一時休戦したものの、正頼は毛利元就と同盟を結ぶ事で宿願である陶晴賢を討ち取り、以後は毛利家に従っています。慶長5年(1600)の関が原の戦いでは毛利家と共に西軍に与し敗北、代わって坂崎直盛が津和野城に入封しています。直盛は天守閣や石垣の多用するなど津和野城を近代的な城郭へと拡張整備を行いますが元和2年(1616)に千姫事件により自刃、坂崎家も改易となり、翌元和3年(1617)に亀井政矩が入封しています。政矩は寛永3年(1626)に津和野城の麓に藩主居館や藩庁を設けて、以後は城下町に近い麓で政務を行うようになっています。山頂部の城郭は貞享3年(1686)の火災により焼失し、以後建築物等の施設は再建されず、明治4年(1871)に廃城になると麓の居館も破却されました。現在の遺構は麓に設けられた馬場先櫓と物見櫓が現存し僅かに名残が残されています。又、山頂部には石垣や郭の形状などが非常に良い状態で残されており国指定史跡に指定されています。日本100名城。
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七尾城の築城年は不詳ですが、一般的には建久4年(1193)益田兼高が標高120mの七尾山山頂付近に築いたとされます。益田氏は源平合戦の功により益田荘が与えられると七尾城を居城として当地域を長期間支配し七尾城を随時整備拡張されていきました。戦国時代に入ると大内氏に従い永正5年(1508)には当時の城主益田宗兼は足利義稙と大内義興と共に京都に入り、天文12年(1543)には益田藤兼が先陣となり大内義隆の月山富田城の攻防戦にも参陣しています。その後、益田氏は大内氏の重臣陶氏と姻戚関係を結ぶ事で地位を確立しましたが、陶晴賢が下克上により主家である大内家を掌握すると、周辺国人領主の反発をかい天文24年(1555)には毛利元就や吉見正頼などの侵攻により滅ぼされ、結果的に毛利氏に従うようになっています。その後は毛利氏の主要な戦で功を挙げた事で重臣として取り上げられますが、慶長5年(1600)の関が原の戦いで毛利輝元が西軍に与し、周防国・長門国に減封になった為、益田元祥も長門須佐(山口県須佐町)に移り七尾城も廃城になっています。七尾城は山頂部と麓に設けられた三宅御土居で構成され、山頂部は本丸を中心として全長600mに渡り多くの郭(40余)が存在し、数多くの施設が建てられ、三宅御土居が完成後は詰城として機能しました。七尾城唯一の遺構で大手門だったと伝わる城門が益田家の菩提寺の1つ医光寺の山門として移築され現存しています。
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