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埼玉県:城郭建築一覧 |
市町村 |
城名 |
名称 |
現在 |
概要 |
備考 |
川越市 |
川越城 |
本丸御殿 |
同左 |
嘉永元年:城郭御殿、入母屋、本瓦葺 |
県指定 |
川越市 |
川越城 |
蓮池門 |
栄林寺 |
切妻、桟瓦葺 |
− |
川越市 |
川越城 |
伝:城門 |
徳性寺 |
記録が焼失し川越城の遺構かは不明 |
− |
東松山市 |
川越城 |
裏門扉 |
民家 |
旧家の長屋門の門扉として移された |
− |
川越市 |
江戸城 |
御殿 |
喜多院 |
寛永16年:庫裏・書院として移築 |
国重文 |
さいたま市 |
岩槻城 |
黒門 |
岩槻公園 |
長屋門、寄棟、桟瓦葺 |
− |
さいたま市 |
岩槻城 |
裏門 |
岩槻公園 |
切妻、桟瓦葺 |
− |
さいたま市 |
岩槻城 |
本丸車橋門 |
民家 |
切妻、桟瓦葺、高麗門 |
− |
さいたま市 |
岩槻城 |
三の丸裏門 |
民家 |
切妻、桟瓦葺、高麗門 |
− |
行田市 |
忍城 |
城門 |
同左 |
切妻、瓦棒葺、高麗門 |
− |
行田市 |
忍城 |
藩校表門 |
同左 |
切妻、桟瓦葺、高麗門 |
− |
加須市 |
忍城 |
北谷門 |
總願寺 |
移築城門:切妻、桟瓦葺 |
市指定 |
加須市 |
古河城 |
裏門 |
民家 |
切妻、桟瓦葺、三間一戸 |
− |
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川越城は、長禄元年(1457)、当時の扇谷上杉家当主上杉持朝が家臣である太田道真、道灌父子に命じて築いたのが始まりとされます。当時、川越の地は古河城を居城とした古河公方足利成氏の支配地に隣接する要地で重要視され扇谷上杉家自ら居城として侵攻を押えました。戦国時代に入ると古河公方足利家は大きく衰退し、代わって小田原北条氏の台頭が著しく天文6年(1537)には川越城を占拠するまでになりました。天文15年(1546)には上杉家による奪還作戦が行われましたが失敗し上杉領は大きく後退しています。天正18年(1590)の小田原の役では豊臣秀吉に従った前田利家の侵攻により川越城は落城、小田原北条氏が滅び、徳川家康が関東に移封になると家康の重臣酒井重忠が1万石で配されました。重忠は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで功を挙げ慶長6年(1601)に前橋城(群馬県前橋市)に移封になると、江戸城を守る上で最重要視された川越城の城主の選定に派閥争いが派生し長い間城主不在の時期がありました。慶長14年(1609)にようやく決定し酒井忠利(重忠の弟)が入封すると改めて川越藩が立藩し、その後は堀田家、大河内松平家、柳沢家、秋元家、越前松平家、松井松平家が城主を歴任し明治維新を迎えています。明治元年(1868)には当時の城主が新政府に恭順を示す為に堀が埋め立てられ、その後も順次施設が破却され、明治6年(1873)に廃城令が発令されると本格的に取り壊されています。現存する本丸御殿は嘉永元年(1848)に松平斉典が再建したもので入母屋、桟瓦葺、平入、桁行19間、梁間5間、往時は16棟、建坪1025坪の規模を誇り、現在でも玄関、大広間、家老詰所が残され埼玉県指定文化財に指定されています。
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岩槻城は寛政5年(1465)、当時の扇谷上杉家当主上杉持朝が家臣である太田道真、道灌父子に命じて築いたのが始まりとされます。戦国時代に入ると小田原北条氏の圧力を受け、大永5年(1525)に北条氏綱の侵攻により岩槻城は落城、当時の城主太田資頼は石戸城に逃れました。その後、太田家を見限り北条氏方となった渋江三郎が岩槻城の城主を勤めていましたが、享禄3年(1530)に資頼が奪還作戦を行い、見事成功を果たしています。その後は太田氏は上杉氏、小田原北条氏、宇都宮氏、佐竹氏、など大名に翻弄されますが天正8年(1580)に北条氏政の弟である北条氏房が太田家の名跡を継いだ事で北条方が明確になります。天正18年(1590)の小田原の役では豊臣秀吉の家臣である浅野長吉の侵攻により開城、同年、徳川家康の関東移封に伴い、家康の家臣高力清長が2万石で岩槻城に配されています。高力家は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後の領地が安堵され岩槻藩を立藩、その後は青山家、阿部家、板倉家、戸田家、松平(藤井)家、小笠原家、永井家、大岡家が城主を歴任して明治維新を迎えています。明治4年(1871)の廃藩置県により岩槻藩は廃藩となり岩槻城もそれに伴い廃城、多くの施設が破却されましたが、黒門と裏門が旧城内に再移築され、その他にも2棟の城門が民間に払い下げられています。
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忍城は文明10年(1478)に当時の領主成田正等・顕泰父子により築城されたのが始まりとされます。戦国時代に入ると小大名だった成田氏は大大名だった越後上杉家と小田原北条家との間で翻弄され最終的には小田原北条家に従います。天正2年(1574)には上杉謙信(春日山城の城主)の侵攻を受けましたが、忍城は落城に至らず、天正18年(1590)の小田原の役の際にも石田三成率いる豊臣の大軍を、城代だった成田長親が良く防ぎ、結果的に小田原城が落城した事で開城に応じました。同年、徳川家康の関東移封に伴い、忍城には家康の4男の松平忠吉が配されますが、忠吉は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで大功を挙げた事で尾張藩(愛知県名古屋市)52万石に移封となり、忍城の周辺は天領となっています。寛永10年(1633)に松平信綱が3万石で入封すると忍藩が立藩され、忍城も整備され藩庁、藩主居館が置かれ、寛永16年(1639)に信綱が島原の乱で功を挙げ川越藩6万石で移封になると阿部忠秋が入封、文政6年(1823)に阿部正権が白河藩(福島県白河市)に移封になると奥平松平忠堯が入封、以後、松平家が城主を歴任して明治維新を迎えています。、明治4年(1871)廃藩置県で忍藩が廃藩になると忍城も廃城となり多くの施設が破却されています。
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