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奈良県:城郭建築一覧 |
市町村 |
城名 |
名称 |
現在 |
概要 |
備考 |
大和郡山市 |
大和郡山城 |
城門 |
永慶寺 |
移築城門:切妻、桟瓦葺 |
− |
大和郡山市 |
小泉陣屋 |
裏門 |
小泉神社 |
移築城門:切妻、本瓦葺 |
− |
大和郡山市 |
小泉陣屋 |
裏門 |
金輪院 |
移築城門:切妻、本瓦葺 |
− |
高取町 |
高取城 |
二の門 |
子嶋寺 |
移築城門:切妻、本瓦葺 |
− |
高取町 |
高取城 |
松の門 |
児童公園 |
移築城門 |
− |
櫻井市 |
芝村陣屋 |
南門 |
慶田寺 |
長屋門、入母屋、本瓦葺 |
− |
宇陀市 |
松山陣屋 |
陣屋門 |
同左 |
高麗門:切妻、桟瓦葺 |
− |
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郡山城は天正8年(1580)に筒井順慶によって築城されたのが始まりとされます。筒井順慶は大和国の国人領主でしたが織田信長に臣従し各地の戦で功を挙げた事で20万石が安堵されました。天正10年(1582)の本能寺の変では大恩のある明智光秀の誘いを断り中立を保ち、後に嫌疑を掛けられるも許され、以後、豊臣家の臣従します。天正13年(1585)、跡を継いだ筒井定次は伊賀上野城に移封となり、代って秀吉の弟である豊臣秀長が大和国・紀伊国・和泉国の3国100万が与えられ入封すると郡山城は大改修され、大大名に相応しい城郭へと拡張整備されました。秀長の跡を継いだ豊臣秀保が文禄4年(1595)で死去すると大和豊臣家は断絶、代って増田長盛が20万石で入封します。長盛も引き続き郡山城の拡張整備を続け、豊臣政権五奉行の第三席を担うなど有力家臣として政権を支えています。その為、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでも西軍に与し(東軍よりの行動も行っている事から単純に西軍だった訳ではありません)改易となります。関ヶ原の戦いの後は徳川家の直領となり城代として筒井定慶が1万石で配されましたが、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で大坂方の攻撃目標となり、定慶は戦わず郡山城を放棄して自刃したと伝えられています。大坂の陣が終結すると水野勝成が6万石で入封して郡山藩を立藩、以後、松平(奥平)家、本多家、松平(藤井)家、本多家、柳沢家が城主を歴任して明治維新を迎えています。明治6年(1873)の廃城令により廃城となり多くの施設が取り壊されました。
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高取城の明確な築城年は不詳ですが、伝承によると南朝年:元弘2年(1332)、北朝年:正慶元年(1332)に南朝方の武将である越智邦澄によって築かれたと伝えられています。越智氏は長きに渡り当地を支配し、戦国時代には高取城を本城として利用し天文元年(1532)には一向一揆衆の侵攻を撃退しています。当時の城主越智家秀は織田信長の家臣となった筒井順慶に従い各地に従軍していましたが、天正8年(1580)、信長の命により大和国内は大和郡山城以外の廃城令を発令し、それに伴い高取城は廃城となります。その後、大和郡山城の詰め城として高取城は復活しましたが、天正10年(1582)に本能寺の変で信長が倒れると筒井家との対立を招き、天正11年(1583)に順慶の画策により内衆の手によって当時の城主越智頭頼が生害され越智氏は滅亡しました。天正12年(1584)、高取城を掌握した順慶は拡張整備を行い、天正13年(1585)に伊賀国上野城に移封後に大和郡山城に入封した豊臣秀長(豊臣秀吉の弟)も家臣である脇坂安治や本多利久を配して引き続き整備を行い近代的な山城の完成に至りました。豊臣秀吉が死去すると本多利久の跡を継いだ俊政は豊臣家を見限り徳川家に属し、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでも東軍として行動しました。その際、高取城も戦場となり西軍により攻められましたが、守将だった本多正広が守り抜き、俊政も会津攻めに従軍した事で2万5千石に加増され高取藩を立藩します。寛永14年(1637)に本多家が断絶すると、寛永17年(1640)に植村家政が入封、以後、植村家が城主を歴任し明治維新を迎えています。高取城は標高583.9mの高取山の山頂付近に築かれた中世以来の山城で、往時は大天守、小天守の他、三重櫓が17基、総櫓数27基と通常の城郭では考えられない程多くの防衛施設があり城域も周囲約3キロ、約1万uと広大だった事から備中松山城、美濃岩村城と共に日本三大山城に数えられています。明治6年(1673)の廃城令に伴い高取城は廃城となり一部の建物が民間に払下げとなっています。
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芝村陣屋は永享2年(1745)に戒重藩第7代藩主織田輔宜が設けたもので、完成すると陣屋を戒重から芝村に藩庁、藩主居館を移して芝村藩を立藩します。藩主織田家は織田信長の末弟である織田長益の4男長政の家系で、長益は天正10年(1582)の本能寺の変後は織田信雄に従っていましたが、天正18年(1590)に信雄が改易になると豊臣秀吉の御側衆となり、秀吉が死去すると徳川家康に与します。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍として参陣し功を挙げた事で3万2千石を与えられ諸侯に復帰、しかし、再び豊臣家の家臣となった為、元和元年(1615)大坂の陣後に強制隠居となり、4男長政に1万石、5男尚長に1万石に分け与えられました。芝村陣屋はその後も織田家が歴任し明治維新を迎えています。陣屋は周囲を堀と土塁で囲み要所には石垣を要し、総面積は約8ヘクタールと広大でしたが、明治維新以降は廃され、跡地は織田小学校の校庭となっています。
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