小田原城の築城年は不詳ですが、平安時代末期には既に存在し小早川遠平の居館だったとされます。小早川遠平は土肥実平の嫡男で小早川村に城を構えた事から小早川氏を名乗り、早くから源頼朝に従った事で鎌倉幕府の御家人となっています。遠平は建保元年(1213)の和田合戦に、敗者側の和田家に加担した事で沼田荘(安芸国沼田郡の荘園:広島県三原市)に移封となり、後裔は戦後時代に大名となっています。その後は土肥家一族が入り長く支配していましたが、応永23年(1416)の上杉禅秀の乱で、敗者側の禅秀方に加担した事で衰退し、変わって当地まで台頭していた大森氏が小田原城の城主となっています。戦国時代に入ると韮山城(静岡県伊豆の国市)の城主北条早雲が相模国にまで進出し当時の城主大森藤頼が早雲の策略に嵌り小田原城を奪取したと伝えられています。
その後、北条氏綱の代に居城を小田原城に移すると随時、拡張と整備を行い当時の日本を代表する大城郭となりました。防御的にも堅固で永禄4年(1561)には上杉謙信、永禄12年(1569)には武田信玄(躑躅ヶ崎館の城主)に攻められましたが何れも退け、小田原城は難攻不落との名声を得ました。
北条氏は小田原城を拠点にして勢力は関東一円まで広げ大きな影響力を持ちましたが、天正18年(1590)に所謂「小田原の役」により豊臣秀吉の侵攻を受け3ヶ月に渡る籠城戦の後に降伏し開城、大大名家としての北条氏は没落しています(一万石余で再興)。その後、徳川家康の関東移封に伴い小田原城には家康の家臣である大久保忠世が配されると、家康の居城である江戸城より大規模で堅固であると不都合だった為、忠世は城郭の規模を縮小しています。
江戸時代に入ると小田原藩の藩庁、藩主居館が設けられ、慶長19年(1614)に大久保忠隣が改易後は阿部家、稲葉家、大久保家が城主を歴任して明治維新を迎えています。明治4年(1871)の廃藩置県により小田原藩が廃藩になると小田原城も廃城となり多くの施設は取り壊され、明治34年(1901)以降には小田原御用邸が置かれました。小田原城の遺構は少なく、幸田門と城門の1つと伝わる建物が民家に移築されています。
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