岩手県: 城郭建築

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 岩手県:城郭建築一覧
市町村 城名 名称 現在 概要 備考
盛岡市 盛岡城 彦御蔵 彦御蔵 江戸後期:土蔵2階、切妻、桟瓦葺 市指定
盛岡市 盛岡城 城門 報恩寺 移築城門、赤瓦、切妻
盛岡市 盛岡城 城門 清水寺 移築城門、切妻、桟瓦葺、四脚門
盛岡市 盛岡城 勘定奉行 徳清 勘定奉行所の一部が移築再利用
盛岡市 盛岡城 土蔵 木津屋 詳細不詳
盛岡市 盛岡城 土蔵 浜藤酒造 詳細不詳 市保存
花巻市 花巻城 搦手門 旧圓城寺門 移築城門:櫓門、切妻、鉄板葺 市指定
花巻市 花巻城 鐘撞堂 鐘撞堂 入母屋、銅板葺、袴腰付 市指定
一関市 一関城 大手門 毛越寺 移築城門:長屋門、切妻、銅板葺
奥州市 岩谷堂要害 裏門 興性寺 移築城門:切妻、桟瓦葺
奥州市 岩谷堂要害 三瓶門 岩谷堂小学校 移築城門:切妻、桟瓦葺
奥州市 前沢所 大手門 前沢小 移築城門:切妻、桟瓦葺
 盛岡城−城郭建築概要

盛岡城の築城年は不詳ですが、平安時代後期に橘頼為(清原武則の甥)が逆志方(不来方)を領していた事から当地を居館としたとの説があります。盛岡城中世に入ると南部四天王(福士氏、三上氏、安芸氏、桜庭氏)の一家である福士氏が支配し不来方城(慶善館・淡路館)を居城として当地方の南部家の拠点となっていました。天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥州仕置の際、三戸南部氏が南部家の総領として所領を安堵された事に不服だった九戸南部氏が天正19年(1591)に反乱を起こし、所謂「九戸の乱」を鎮圧すると正式に陸奥国7郡(閉伊郡、岩手郡、鹿角郡、紫波郡、糠部郡、和賀郡、稗貫郡)10万石が認められ、本拠地を三戸城(青森県三戸町)から九戸城(岩手県二戸市)に移します。しかし、九戸城は領内の北部地域に偏っていた為、蒲生氏郷や浅野長政などの助言もあり文禄元年(1592)に不来方城に本拠を移す計画が持ち上がり、整地などが先行して行われました。

当時の城主だった福士氏は九戸南部氏に近い家柄だった事から躊躇無く領地替えが行われ慶長3年(1598)に本格的な築城が開始されます。慶長5年(1600)の関が原の戦いで南部氏は東軍に与した為、引き続き領地が安堵され、慶長14年(1609)に第一期工事が完成し城名も「不来方城」から「盛岡城」に改称、さらに工事は続き、盛岡城は完全の竣工したのは寛永10年(1633)で、南部信直、利直、重直の3代に渡って携わっています。

盛岡城は連郭式平山城で東北地方では珍しい総石垣造りの堅固な城で鶴ヶ城(福島県会津若松市)、小峰城(福島県白河市)と共に東北三名城に数えられています。

明治4年(1871)、盛岡藩の廃藩に伴い盛岡城も廃城、明治5年(1872)からは陸軍省の管理下に置かれ明治7年(1874)に多くの建物が破却されました。現在は岩手公園として整備され、彦御蔵が城内、城門(盛岡城のどこに位置していかは不詳)が報恩寺と清水寺、勘定奉行の一部が清徳、土蔵が木津屋と浜藤酒造に移築現存しています。日本100名城

盛岡城:動画

 花巻城−城郭建築概要

花巻城は前九年合戦が行われている中、永承6年(1051)に安倍頼時の戦略的拠点として城柵を設けたのが始まりとされます。花巻城鎌倉時代に入ると陸奥国稗貫郡に配された稗貫氏の持城になったと思われ、享禄年間(1528〜1531年)に本城を十八ヶ城から鳥谷ヶ崎城(花巻城)に移しています。稗貫氏は長く稗貫郡周辺の国人領主として影響力を持ち南部家などと度々戦火を交えていましたが、天正18年(1590)の小田原の役に参陣しなかった事から豊臣秀吉による奥州仕置により改易となり大名家としての稗貫氏は没落しました。その後、稗貫氏は改易を不服として和賀・稗貫一揆を起こし、鳥谷ヶ崎城(花巻城)も落城寸前まで善戦しましたが豊臣方の奥州仕置軍の援軍により一揆勢が鎮圧されました。

変わって南部家が新た領主となり花巻城には重臣である北信愛・秀愛親子を配し、北氏は稗貫郡代として花巻城の改修と共に城下町の建設や領内の開発に尽力ししています。慶長5年(1600)の関が原の戦いの際、伊達政宗の支援を受けた一揆勢が再び花巻城を急襲し、再度落城の危機に陥りましたが、援軍が間に合いどうにか撃退しています。

花巻城は慶長18年(1613)に完成しますが同年に北信愛が死去すると盛岡藩(本城:盛岡城)が接収、替わって南部政直(盛岡藩初代藩主南部利直の次男)が和賀郡と稗貫郡の2郡2万石が与えられ花巻城に入ります。政直は花巻城を近代的な城郭に改修し、櫓や櫓門などを整備し、慶長20年(1615)に一国一城令が発令後も事実上の城郭として維持されました。明治2年(1869)に花巻城が廃城になると多くの建築は取り壊され、移築城門として圓城寺門(旧搦手門)、大手門近くにあった鐘撞堂が現存しています。

花巻城:動画

 一関城−城郭建築概要

古くは征夷大将軍として当地に赴任した坂上田村麻呂が陣を張った場所とされ、その後の詳細は不詳ですが地理的に一関城戦略拠点と成り得る土地柄だった事から何らかな軍事的施設が設けられていたと推察されます。記録的には陸奥国中部(現在の岩手県南部から宮城県北部)を支配した葛西氏の家臣小野寺道照が天正年間(1573〜1593)に一関城に入り改めて築城したとあります。天正18年(1590)の小田原の役に葛西氏は参陣しな事で領地を取り上げられ大名家として没落し小野寺氏も命運を共にしたと思われます。天正19年(1591)奥州仕置きに不服だった葛西氏、大崎氏は伊達政宗の支援を受け一揆を起こし、鎮圧されたものの政宗はその罪により米沢城から岩出山城に移封となり一関城には家臣である留守政景が配されました。寛文年間(1661〜1672)には伊達宗勝(伊達政宗の10男)が3万石で入封し一関藩を立藩、宗勝は野心家で幼少だった仙台藩4代藩主伊達綱村の後見人として仙台藩に大きな影響力を行使した為、元々の家臣達と対立し寛文11年(1671)、所謂、伊達騒動と呼ばれる御家騒動を起こし土佐藩に流されました。

一関藩は廃藩となり仙台藩に接収されましたが、天和2年(1682)田村建顕が岩沼藩から移封となり再び一関藩を立藩します。建顕は一関城の麓に陣屋を設けて藩庁と藩主居館を造営、以後、田村家が11代藩主を歴任して明治維新を迎えています。一関藩が廃藩になると陣屋も廃され、一関城の跡地は県庁その後は市役所が建てられた為雰囲気は消滅しています。一関城の唯一の遺構として城門の1つが毛越寺(岩手県平泉町)の山門として移築されています。

一関城:動画

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