【概 要】−岐阜県の江戸時代は大垣藩、野村藩、高富藩、郡上藩、岩村藩、苗木藩、加納藩、今尾藩、高須藩が存在しました。野村藩、高富藩、今尾藩、苗木藩は小藩だった事もありその後の都市的発展は見られず、大垣藩、加納藩は市街化の為、武家町の雰囲気が失われています。岩村では明治以降武家町が衰退しましたが商家町には古い町並みが良好に残り重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。郡上も町並み全体が重要伝統的建造物群保存地区に選定され、桜町にも武家屋敷の名残と思われる建物や黒板塀などが点在しています。高須にも武家屋敷の遺構と思われる長屋門や屋敷が点在し武家町の風情が残されています。
【海津市海津町】−高須陣屋の前身である高須城は延元3年(1338)氏家重国によって建てられました。氏家重国は南北朝時代、北陸地方の守護職を担った斯波氏の家臣として北朝方に従軍し、南朝方の有力武将である新田義貞を討ち取った事で美濃国石津郡内の地頭職に命じられ、居城として高須城を築きました。戦国時代に入ると大橋氏が台頭し大永2年(1522)に大橋重一により改めて築城し当地の土豪として地位を確立しましたが、織田家の勢力が当地まで及ぶと織田家に従っています。その後は短期間の内に城主が何人も変わり文禄元年(1592)からは豊臣秀吉の家臣高木盛兼が海西郡、石津郡内1万石で配されます。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは盛兼は西軍に与し、東軍の徳永寿昌と市橋長勝に攻められ高須城は落城、戦後に盛兼は改易になっています。代わって高須城攻略に大功があった徳永寿昌が5万石で入封し高須藩を立藩、高須城には藩庁、藩主居館が設けられ大改修されます。寛永5年(1628)に徳永昌重が改易になると高須藩は廃藩、寛永17年(1640)に小笠原貞信が入封すると再び立藩、元禄4年(1691)に越前勝山藩(福井県勝山市)に移封になると再び廃藩となります。元禄13年(1700)松平義行(尾張藩第2代藩主徳川光友の次男)が陣屋を当地に移した事で再び立藩し、以後、松平氏が藩主を歴任しています。幕末には松平家から尾張藩第14代藩主徳川慶勝、石見浜田藩主松平武成、尾張藩第15代藩主徳川茂徳、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬を輩出し大きな影響力を及ぼしました。明治3年(1870)、尾張藩に併合された事で高須藩は廃藩となりその後陣屋も排されたと思われます。高須陣屋は背後の大江川を天然の堀として見立てていた為、城下町は主に南側に計画されました。武家町は陣屋の南側が家老、上級武家屋敷で、さらに南側と東側に中級、下級武家屋敷、南東方向に町人町が配され、それぞれの区画には堀が引き込まれ明確に区割りが行われています。現在も武家町の雰囲気が随所で感じられ、武家屋敷の遺構と思われる長屋門や武家門、生垣、板塀などが見られます。
【恵那市岩村町】−岩村城は鎌倉時代初期に遠山景朝によって築かれたとされます。遠山氏は当地の土豪として長く当地を支配し、戦国時代にかけて岩村城も整備拡張されていきました。当地は武田家、織田家、徳川家の領地が接する要衝の地だった事から当時の城主遠山景任は織田信長の叔母であるおつやの方を正室、信長の5男坊丸(織田勝長)を養子として迎え織田家と縁戚関係を結びます。しかし、景任が死去すると衰微し元亀3年(1572)、武田家の家臣秋山信友の侵攻により開城し、信友が岩村城の城主となりおつやの方を娶ります。天正3年(1575)の長篠の戦い後、武田勝頼は体制を整える為に信濃に引き上げると、織田勢は岩村城に侵攻し、5箇月間に渡る籠城戦が繰り広げられるものの落城には至らず、信友・おつやの方夫妻の助命を条件に開城に応じました。しかし、織田方はその条件を破り、岩村城を接収後、二人を拘束し長良川河川敷で逆さ磔として処刑されました。その後は短期間で城主が目まぐるしく交代し順次拡張整備されました。天正10年(1582)の本能寺の変で信長が倒れると、家臣だった森長可が接収し、森家の家臣各務元正が城代として岩村城に配され、岩村城を現在に近い形にまで仕上げています。慶長4年(1599)森忠政が松代城(長野県長野市松代町)に移封になると、代わって松代城主だった田丸直昌が入封しましたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍に与した為、改易となり代わって松平家乗が入封し岩村藩を立藩、岩村城は山城だった為、麓に藩庁、藩主居館を設けました。その後は丹羽家、松平(大給)家が城主を歴任して明治維新を迎えています。城下町は岩村川の北側を武家屋敷、南側を町人町として整備され、武家屋敷の遺構は殆どありませんが町人町は現在でも良好な町並みを残しており重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
スポンサーリンク
|