【概 要】−山梨県は江戸初期を除き藩という存在しませんでした。当初は江戸を守る重要拠点として徳川義直(初代将軍徳川家康の9男)や徳川忠長(2代将軍徳川秀忠の3男)、徳川綱重(3代将軍徳川家光の3男)が入封、その後は5代将軍徳川綱吉の側用人・柳沢吉保が15万石で入封し甲府藩を立藩しています。柳沢家が大和に移封後は甲府藩は廃藩となり幕府直轄地として甲府勤番が甲府城を管理しました。その為、藩はありませんでしたが、甲府城はれっきとした城郭で城下町には300名前後の武士が生活していました。しかし、近代化に伴い、旧武家地は甲府駅や公共施設、教育施設、商業地などに様変わりして武家屋敷の遺構も失われています。
【甲府市】−甲府市は甲府城の城下町として発展した町です。甲府城の前身である一条小山城の築城年は不詳ですが平安時代後期に甲斐源氏の一族である甲斐一条氏の居館として築かれたのが始まりとされます。
当時の城主一条次郎忠頼は源平の合戦などで活躍しましたが、元暦元年(1184)に源頼朝の命を受けた天野遠景によって暗殺、忠頼夫人は菩提を弔う為に城跡に一蓮寺を創建し尼になったと伝えられています。天正10年(1582)に武田勝頼が自刃し武田家が滅ぶと、武田家居城だった武田氏館(躑躅ヶ崎館)は廃城となり、甲府城の築城が計画されました。
その後の領主となった徳川家時代から築城が開始され(計画のみで実際は築城に関わっていないとも)、豊臣家時代の浅野長政・幸長父子によって完成しました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは浅野幸長は東軍として布陣し南宮山の毛利秀元に対応した事で紀州藩37万6千石の太守として移封となりました。
甲府の地は江戸に通じる甲州街道の要衝であった事から甲府城は江戸城の支城として重要視され江戸時代初期は徳川家一門である徳川義直(家康9男)、徳川忠長(2代将軍徳川秀忠の次男)、徳川綱重(3代将軍徳川家光の3男)、徳川綱豊(綱重嫡男)が城主を歴任しました。
その後、宝永3年(1705)に柳沢吉保が入封、享保9年(1724)に柳沢吉里が大和郡山藩(奈良県大和郡山市)に移封になると甲府藩は廃藩となり幕府の直轄領となりました。甲府城には幕府の役人である甲府勤番が置かれ、幕末の動乱期の慶応2年(1866)には勤番制を廃止し、城代を設置しましたが戊辰戦争では機能せず、新政府軍の板垣退助は殆ど抵抗を受ける事なく甲府城を摂取し、奪還を画策する新撰組も一掃しています。
明治6年(1873)の廃城令に伴い甲府城は廃城となり、多くの施設が破棄され石垣だけの城郭だけが残されました。武家町は甲府城の内堀と外堀の間に設けられ外堀の北西方向に上府中、東南方向に下府中と呼ばれる町人(商家・職人)町が設けあられ、さらに町民町を取り囲むように寺院や神社が配され防衛ラインとしていました。明治以降の近代化や区画整理、太平洋戦争時の甲府大空襲などで現在は武家屋敷の目立った遺構は見られません。
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